東京大空襲後の航空写真に謎の黒い点々が… 

焼け野原の下町の写真に知られざる物語があった
 
 東京大空襲で焼け野原になった浅草の、約6ヶ月後の下の写真二枚をご覧ください。上の航空写真右上が北部浅草の『ほていや』がある山谷地域です。その“点々”と書かれた字の上にある白いビルがSKDの晴れ舞台だった国際劇場で、さらに国際通りの最北端にはうっすらと四本のお化け煙突が。画像中央部には大きなお寺が見えますが、それは葛飾北斎の富嶽三十六景にも描かれている「東本願寺(東京本願寺)」です。本願寺は幸い鉄筋コンクリート造りだったことで建物外部だけは焼け残った。

 本願寺の左手には南北に約800m走る道路が見えるが、昔その通りは都電通りだった。今の山谷地域に区割りされる三ノ輪橋から東京都電車三ノ輪線(21/31系統)がその通りを走っていたが、現在は「かっぱ橋道具街通り」と呼ばれていて、和包丁や食品サンプルなど飲食店に使う調理用具を買い求める外国人旅行者がとても多い道具街のメインストリートになっている。
 よくよく見ると今の商店街がある道路に黒い点々があるのが確認出来ることでしょう。その通りの黒い点々は言問い通りとの交差点近くにあった昔の金竜小学校(現在の生涯学習センターのある場所)の下方から南の菊屋橋方向へ長く続いているのが分かる。

 ↓ 下の東京本願寺を中心とした鮮明な地図は⇒ こちら
東京大空襲後航空写真に謎の点々が…
 ↑ 昭和20年の東京大空襲の後約6ヶ月後9月28日の浅草の状況 ↓ 
東京大空襲の六ヶ月後の浅草
 下の写真の方は東京本願寺の境内で、左手にお寺の庇がかろうじて写っている。すでに空襲後六ヶ月も経過しているのに人々は未だ野宿同然の暮らしをしていることが分かる。


 合羽橋の歴史に詳しい人にこの「謎の黒い点々」のことを聞いたところ、黒い点々は焼け焦げた都電(JRの電車が移管後も国電と呼ばれていたのと同様に当時市電とも呼ばれていた)だったことが分かった。実は現在の金竜小学校の場所にはかつて都電の車庫があり、東京大空襲の前にも度々空襲があって、その都度東京都電車の職員たちが車両を空襲からの焼失から逃れるため、繰り返し都電を車庫から合羽橋のメインストリートへ並べていたのだという。
 しかしながら、10万人が焼き殺されたという昭和20年3月10日の未明の大空襲では、職員たちの苦労は報われず、都電の車両すべてがB29からの焼夷弾によって残らず黒焦げに焼き尽くされてしまったのだという。東京大空襲から半年も過ぎても、相変わらず黒焦げの都電車両が通りに並んでいるのが上の一枚目の写真だった。 



 東京を襲った延べ106回もの大規模爆撃の中で、焼夷弾(ナパーム弾)を用いた最大規模の無差別爆撃が東京大空襲だった。
 グアム、サイパンなどマリアナ諸島を基地とするB29の爆撃機は延べ325機が出撃して1,600㌧の爆弾を投下したとされている。その被害状況は、家屋は26万戸以上が焼け落ち、超100万人が一夜に罹災して10万5,000人以上が焼け死んだりしたと言われているが、実際のところ被害者の数はいまだに分かっていない。例えば、隅田川などへ飛び込んで東京湾へ流された人の数などは入ってないからだ。当日の川の水温は1℃だったので入水した人は凍死しした人がとても多かったらしい。

 なお、東京大空襲から70年の惨状を記録した写真集が神田神保町の大型書店に並んでいた。「決定版 「東京空襲写真集」(定価 12,960円)は、東京への空襲を撮影した未公開のものを含め1,400点以上の写真を集大成した写真集だそうだ。
東京大空襲 写真集

◆ 過去の関連ページ ◆

東京・下町を焼野原にした「東京大空襲」は⇒こちら

「都電22番線の画像」は⇒こちら

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