灯消えた山谷の名物食堂 

忘れ去られた山谷の風景 ~あさひ食堂~



 昭和20年3月10日未明に起きた東京大空襲で、一夜にして山谷の木賃宿はすべて焼け落ち、罹災者は上野の地下道などで野宿同然に住みついていた。上野は次第に大陸からの引揚者や復員兵なども集まり治安や衛生上の問題なども起きた。

 時は過ぎ、焼け野原の山谷には家を失った住民が次々と戻ってきて何とか街を再建しようとしていた。ちょうどその頃、国やGHQ(進駐軍)の意向もあり山谷に罹災者のテント村が造られることになった。進駐軍はテントや簡易ベッドを配給してくれ、近所の知り合いの20代から30代の若者たちが中心になって、カーキ色の大きな野戦用テントを受け取りにいったり働ける罹災者をトラックに乗せ上野からテント村まで運んだりしたそうだ。その時の若者のリーダーが今回紹介するあさひ食堂という巨大大衆食堂創業の立役者「帰山仁之助」だった。それから山谷は次第に本建築の宿泊所も建てられ復興の兆しも見え始めていたが…。

 しかし、寝るところは出来たが食べることに関して問題が残った。当時は米については非常にやかましい時代で、家のない者は異動証明がないと配給が受けられなかったため、山谷の人たちに手に入るのはコッペパンくらいというありさまだった。

 ↓ 昭和37年の改築時、東京五輪を2年後に控え一番利用者が多かった頃の画像
あさひ食堂 全景
あさひ食堂 店内客室風景
 ↑ 最盛期のピーク時の朝には、125人分の椅子席の後ろにも順番を待つ列が…

 エアコン付き大型大衆食堂に生まれ変わる (昭和37年10月14日 改築落成記念写真)
あさひ食堂 改築落成記念写真
● 昭和28年頃「ニコヨンの家」計画が持ち上がり、山谷の簡易宿所の経営者たちが集まって話し合い、市価の半値で食べられる大衆食堂や簡易宿所、授産所、無料の理髪店と共同洗濯場などを作る計画が固まり、場所探しが始まった。
● 場所が決まり旅館組合の経営者たちがお金を出し合って昭和30年に法人化、12月に株式会社 浅草宿泊所会館の食堂部としてスタートしたのが大衆食堂「あさひ食堂」だった。そんな経緯から当初は「組合食堂」と呼ばれていた。
● 食堂の場所は都電22番線の泪橋停留所に近い浅草山谷四丁目(現在は日本堤2丁目)になった。5年の後には、山谷通り(現在の吉野通り)を挟んで向かいに正式名「浅草警察署山谷警部派出所(通称マンモス交番)」が建つことになる。
● 戦前、仲卸市場で仲買人をしていた佐藤賢司さんを支配人に、戦後、野田から担ぎ屋をしていて山谷に野菜を売りにきていた佐藤さんの奥さん共々食堂の管理を頼んだ。
その外の従業員は、佐藤支配人の出身地野田や帰山社長婦人の親戚が多い宮城県などから働ける若い人材を集めた。
● 当初の計画では三分の二を食堂に、残りの三分の一を無料の理髪店などにするはずだったが、開店から物凄い数の利用者だったことで全部食堂になってしまった。
● 山谷には珍しく食べることに特化した食堂で、開店から閉店まで一切アルコール類などは扱わなかった。その代りヤカンに入れられたお茶は飲み放題だった。
● 高度経済成長期の波に乗って営業は順調に推移し、近くの日本堤1丁目に第二食堂が開店。
● 昭和37年10月14日改築、当時の大衆食堂としては珍しい業務用のエアコンが付いた大食堂として再スタートした。


 ↓ これから夕食営業の直前なのか、夕食メニューが棚に陳列されている
あさひ食堂 玄関陳列棚

  三台のロケット型カウンターとその半分サイズのカウンター二台で最大125名収容
 ↓ 出来た 写真左下は、食べ終わった食器類を洗い場まで流すベルトコンベアー
あさひ食堂 店内配膳カウンター

あさひ食堂 調理場 ①
 ↑ 厨房には7升炊き(70人分)の炊飯釜が6台あり毎日フル稼働していた ↓ 
あさひ食堂 調理場 ②

 昭和37年11月23日、皮肉にも勤労感謝の日の晩に物騒な事件も起きた。かつていろは会商店街の中にあって、昭和39年に火災で消失、山谷の娯楽センターだった「吉景館」。その芝居小屋で300名の労働者を集めて行われた浅草簡易旅館組合と福祉センター共催の「地下たびまつり」(日雇い労働者のための慰安会)のその後に、前月に改築したばかりのあさひ食堂は山谷暴動で破壊され10日間休業する事態になった。山谷暴動で唯一民間の施設が攻撃対象になったのがあさひ食堂だった。

● 暴動が2年前の昭和35年に起きた山谷事件と比べ割り合い早く静まったのは、攻撃対象がマンモス交番など行政でなかったことと警官隊(機動隊)が前回の騒動の経験から、実力行使で群衆の興奮を掻き立てるような行動に出なかったことだといわれている。
● 暴動のきっかけは酔った客が食堂の女性従業員へかけた湯呑茶碗のお茶だった。従業員と小競り合いになって、酔っ払いを向かいのマンモス交番へ突き出したが、当時公共性の強い食堂だったので従業員だけ先に店に帰されたことから暴動に発展したといわれている。その他、
① 地下たびまつりの成功を否定したかった騒動屋(左翼の活動家)が扇動したとか
② 寄せ場の飲食店には珍しく酒を扱わない食堂だったので、酔っ払いの扱いに慣れていなかったことが災いしたともいわれた。


 ↓ 昭和37年11月24日 読売新聞の朝刊に掲載された暴動の記事
昭和37年の暴動の記事
◎ 当時映画館で本編上映前に放映されたシネマスコープの
◆ ニュース映画 ①は⇒こちら
◆ ニュース映画 ②は⇒こちら

 ↓ あさひ食堂の二階部は従業員寮になっていた(左側=男子寮 / 右側=女子寮)
あさひ食堂 男女従業員寮
あさひ食堂 男女娯楽室
 右下の「女子娯楽室」の部屋は、最盛期は子供の託児所になった ↑

● 開店した頃の食事は一食30円程度(市価の半値位)で、今の一般の食堂の丼飯と比べると倍以上の量(一合三勺)があって料理の値段も市価の半値くらいだった。
● 初期の時代の調理場には七升炊きの炊飯釜が計六台あって毎日フル稼働していた。当時としたら珍しい一流ホテルや学校給食で使うような調理機がすでに昭和30年代初めにあった。
● 閉店の頃でも米をリッター枡で計って四台の5升炊きのガス釜で炊いていたので、普通盛の丼飯でも一合一勺の量で提供していた。
● 開店当時は丼飯にみそ汁とお新香が付いて(あさひ食堂では“定食”と呼んでいた)30円だった。
● 浅草簡易旅館組合の旅館に泊まっている人が「宿泊証明書」を持参すれば50円の値引きがあった。
● 開店当時は、米を売ってはいけない時代だったのに麦飯六分の割合に米四分混ぜていた。当時米飯の威光は絶大で殺気立つほどの雰囲気を生み、当局が調べに来たこともあったが黙認してくれたらしい。
● 当初の朝のメニューは納豆やつくだ煮、塩辛など簡単なものが多かったが、景気が良くなってきた頃は朝食から「鯨(くじら)のステーキ」というメニューまであった。
● 味噌や醤油は佐藤支配人の自宅のあった野田から直接仕入れ、野菜や魚類は足立市場から毎日仕入れていた。
● 安くて量が多いだけではなく、物凄く回転が速い食堂だったのでピークの時間帯には炊き立ての丼飯はじめ焼き魚、煮魚なども出来立てを提供出来た。
● 店は早朝5時前に開けていたが、毎朝百人以上の行列が出来て泪橋交差点辺りまで並んだので近所の飲食店から苦情も出た。店員が脇道の城北福祉センター方向へ列を誘導しても、気が付くとまた大通り側に大行列が出来ていた。
● 当時としたら珍しいロケット型のカウンターが五台(三台のロケット型カウンターとその半分サイズのカウンターが二台)あり、下膳する際には、工場で使うようなベルトコンベアーで洗い場まで食器を流せるように工夫してあった。
● 最盛期の客席は最大で125人が座れるようになっていて、そのピーク時の朝には、各椅子席の後ろにも順番を待つ列が出来、現場へ急ぐあまり後ろから「早く食べろ」とばかりに容赦なく椅子を蹴る場面もあった。
● 東京オリンピックの頃までは、朝晩それぞれ3,500食、日に7,000食は出ていた。昭和60年4月閉店の頃でも朝晩で500食(景気の良い時で800食)は出ていた。
● 他の飲食店が休む正月三が日も営業、都からの無料食事券配布の正月は、雑煮やおせち料理を含め一日に10,000食以上ということもあった。

 ↓ 営業初期のあさひ食堂の店内の様子
初期のあさひ食堂の店内

  食堂の前の山谷通りは都電22番線が廃線になった昭和46年3月からは
 ↓ 日雇い労働市場の人混みの中を都バス(東42系統)が走るようになった

朝の営業が終わる8時過ぎ頃のあさひ食堂前

● 一番奥にあった魚焼き場までは入口から30m以上もあったので、魚焼き担当との連絡は手信号も使っていた。
●「雨のカレーライス」と言って 天気が悪天の日は仕事にあぶれる人が多いので、夕食時はおかず類が売れずカレーライスだけが早く売り切れた。
● 前金の食券制で、食券売場は両側に二ヶ所あったが、売場のピーク時ではそれぞれの売場で1分間に10人以上の食券をさばくような食堂(レジ導入後でも1分間に最大7人)だったのでピーク時に食券売り二人が猛スピードで売り過ぎると食堂内が労働者であふれ身動き出来なくなるので厨房から食券をゆっくり売るように指示が出ることもあった。
● 食券を素早く売れた理由は、食券が定食券+複数の金券(金額に応じて色分けされていた)の組み合わせで色盲の検査表を見るように瞬時に暗算不要で計算出来たことと、あさひ食堂のシステムに慣れた常連客が主だったことなどだった。
● 注文を聞く接客係は主に慣れた女性従業員で、同時に2人分から最大4人分もの注文も同時に暗記して正確に配膳していた。
● 二階部から俵の米を落とし、下の穴から米を出すような現今の“計量米びつ”の業務版のような仕掛けも調理場にあった。
● 一度当時の文部大臣が見学に来たこともあったが、利用者のほとんどが男性で、食堂後期の営業では山谷の支援団体関連の人たちで女性や外国人も食べにくることもあった。
● 二階は住込み従業員の寮になっていて男性用と女性・家族持ちの寮とが分かれていた。最盛期では60名もの従業員がいて、小さな子供のための託児所のような部屋があり子供や赤ん坊の面倒を見る女性も専門に雇っていた。


 ↓ 昭和60年6月8日 日本経済新聞の朝刊に掲載された廃業の記事
昭和60年 廃業を知らせる日経の記事

 終戦後の食糧難の時代に生まれ、高度経済成長期と呼ばれた都市基盤のインフラ整備の時代を陰で支えて32年間。山谷の寄せ場のおじさん達の旺盛な食欲を満たし続けてきたあさひ食堂は、昭和60年4月末日をもってその役目を終えた。
 やめた主な理由としては、この頃から山谷の労働者たちが羽振りが段々と良くなってきて、朝食にパンとコーヒーで済ますなど食生活が多様化してきたこと、また労働者が利用出来る飲食店が増え食を満たす場所に不自由しなくなったことなどがあげられよう。食堂があった日本堤2丁目の同じ場所には、現在3階建てのビジネスホテルタイプの簡易宿所が建っている。


● 「働く人に山谷文庫」 は⇒こちら

● 「山谷の一大娯楽センター 吉景館」は⇒こちら

● 「光の家宿泊所開業」は⇒こちら

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● 「寄せ場用語の基礎知識 (東京・山谷編)」 は⇒こちら



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