山谷の一大娯楽センター 吉景館 

忘れ去られた山谷の風景 ~芝居小屋 吉景館~



 山谷にも復興の兆しが見えてきた昭和26年(1951年)当時。芸能好きな下町の人たちに嬉しい話が飛び込んできた。それは本格的な芝居小屋が浅草山谷にオープンするというニュースだった。

 神崎清氏の「山谷ドヤ街」を読むと、戦前、いろは会通り商店街にあった常設の寄席「吉景亭」が空襲で焼失、山谷の人たちに気軽に大衆芸能を楽しんでもらおうと、演芸好きな父帰山仁之助が吉景亭があったその同じ場所に、土地所有者の福島さんに頼んで延べ床面積378.9 ㎡の芝居小屋を造ってもらったという。それが山谷の芝居小屋「吉景館」で、台東区浅草田中町2-6(現=日本堤1-18−7)の場所だった。

 以前から吉景館の写真を探してきたが、最近開館式当日に舞台前で撮った一枚の写真を偶然発見した。写真の様子から(多分)乾杯の後に撮った記念の集合写真だったようだ。他に芝居小屋の内外を撮った写真が残っていないかとイチウラ写真館へ確かめに行ったが、昔は写真乾板方式のものだったので廃棄してしまったとのことだった。

    (最前列左から三人目の眼鏡を掛けているのが帰山仁之助)
 ↓ 昭和26年6月28日の吉景館 開館式当日、完成したばかりの舞台前で集合写真を

吉景館開館式

 芝居小屋のオープンがよほど嬉しかったのか、この時代の集合写真には珍しく、直立不動の堅苦しいいポーズではなく酒の入った杯を片手にはしゃぐ姿の人なども見られ、今のスナップ写真に近い楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
 イチウラ写真館の現館長から聞いた話だと、杮落としの公演当日には、いろは会通りに人力車に乗った一座の役者たちのお練りもあったという。

 ↓ 全盛期の吉景館の正面玄関の画像(右側土間に支配人室入口が)吉景館の外観

 小椋佳作詞・作曲「夢芝居」でNHK紅白歌合戦にも出場した梅沢富美男氏は、80年代頃から、女形で話題となり「下町の玉三郎」と呼ばれ一座の大スターになったが、昭和36年(1961年)の子供のころ、大衆演劇「梅沢劇団」の一員として吉景館に公演に来ていたと聞いてはいたが裏付けになるものは何もなかった。
 しかし、最近になって梅沢富美男氏の公式HP「梅沢富美男チャンネル」を開いてみたら「昭和三十六年、大衆演劇のメッカとされていた浅草の吉景館から一座に声がかかった」と吉景館のことが紹介されていた。梅沢劇団の東京進出のルーツが、実は東京・下町、浅草山谷だったとは嬉しい話だ。
 他にも演歌に浪曲の台詞を融合させた、当時ニュージャンルの歌謡曲だった“歌謡浪曲”を確立、「岸壁の母」などを大ヒットさせた二葉百合子さんも若いころ浪曲師の一員として吉景館の公演に来ていたという。
吉景館の大入袋
 ↑ 「吉景館の大入り袋」 大入りの時に芝居小屋から株主らに配られた大入り袋

 定員330名まで収容できた吉景館は、終戦後の復興期に再建叶い、山谷周辺に娯楽施設が少なかったことから連日演芸好きの山谷の街の人たちと寄せ場のおじさんたちで満員になることが多かった。小屋が消失する一年半前の大入り袋には、昭和38年5月9日の日付のスタンプ上に「浅草田中町いろは会…」の文字が押されいる。

 舞台の檀上上手(右上)には黒御簾(くろみす)もあったことも分かる(昭和28年5月)
 簡易旅館の東京都の本部組合「大東京簡易旅館組合連合会」の総会も開催 ↓
本部組合総会 昭和28年5月

 ↓ 昭和39年11月22日深夜に起きた吉景館の火災を知らせる朝刊の記事吉景館の火災を伝える当時の記事

 東京オリンピックのあった年、昭和39年11月22日深夜に信じられないような事件が起きた。1階舞台裏の楽屋から、劇団員の寝たばこにより出火、発見が遅れたうえ、おりからの強風にあおられ一挙に延焼拡大、吉景館を含め16棟延べ980 ㎡を消失する大火災となった。吉景館は全焼、鎮火した朝方になってみれば乳幼児を含む死者7名、負傷者4名をも出す大惨事になっていた。
 この火災は、東京、下町の木造密集地帯に潜む災害の危険性を浮き彫りにした大火災だったことで、消防庁の「特異火災」の事例として今でも語り継がれている。

 吉景館の館内は、株主の子供たちにとっては絶好の遊び場所で、山谷の簡宿に大勢住んでいた学校に通えない無籍の子どもたちのための寺子屋「小さなバラ子供会」の各種イベントや「大東京簡易旅館組合(現=東京都簡易宿泊業生活衛生同業組合)」の総会なども開催されていた。
 しかしまだ々分からないことが多いので、吉景館に関わった人たちからいろ々な情報を聞きたいと思っている。情報が入り次第随時このページを更新してゆきたいと思っているが、気になっている主なことを示すと。

● 戦前同じ場所にあった「吉景亭」は、落語はもちろん浪曲、講談の外、ウォルト・ディズニーのアニメーションも映写していた?
● 吉景館の舞台は大衆演劇の芝居小屋としては珍しい花道があり、舞台上手(右側)には黒御簾(くろみす)もあった?
● 観客席は、板の間の大衆席と、舞台右手には席が一段高くなった畳敷きの桟敷席があって、桟敷席の片すみには(有料で借りし出すためか)座布団が積まれていた?
● 二階の支配人室の下には、駅のキオスクのような売店があって、見物客がお捻り代わりに売店で買った物品を舞台へ投げ入れていた?
● 場所柄、日本酒を一升瓶のまま舞台へ置くような人もいたが、舞台へ小銭や煙草ならピースやいこいが投げ入れられて、幕間にそれを子役が三度笠で拾い集めていた?
● 吉景館の玄関右側に土間があって、そこには、確か「四番組」の纏(まとい)が飾られていたが、その理由は?
● 聞いた話では、「四番組」の纏の脇には、火消し装束をまとった銅像があったらしい?
● その銅像は吉景館跡地にできた福島ビルの屋上に移設され、最近まで現存していたらしいが、誰がモデルだったのか?
● 福島ビルの屋上にかつてあったその銅像は、度々投身自殺者と間違えられ119番通報されることがあったので撤去されたのか?
● 支配人室の二階は三室に分かれていて、一番大きな18畳の和室は、ふすまを開くと舞台が広く見渡せるVIPルーム(御大尽席)になっていた?
● 吉景館には専門職の下足番がいて、300人ものお客さんの下足を頭で記憶して管理してたとか?
● その下足番は、吉景館焼失後、土手の桜鍋「中江」さんの下足番をしていた?
● 吉景館の支配人は、吉景館焼失後、向かいに子供向けの駄菓子屋(ゲームセンター)を開業した?
● その駄菓子屋の裏手には、「ちどり」というお好み焼き屋も支配人が経営していて、よく芸能人関係者が訪れていて、司会の冒頭挨拶で「一週間のご無沙汰でした」で有名だった玉置宏さんもよく訪れていたとか?


 ↓ 昭和39年の消失まで吉景館があった場所(現=福島ビル)
吉景館があった場所

 ↓ 吉景館焼失後に建てられた福島ビル屋上に数年前まであった謎の銅像
福島ビル屋上の銅像 ①
福島ビル屋上の銅像 ②&③

 ↓ 吉景館開館の同じ頃に撮った『ほていや』(山谷に続々と本建築の宿が…)昭和25年3月のほていや旅館

 ↓ 紙芝居に集まる昭和24年頃の子どもたち(山谷三丁目 現= 日本堤1丁目)
紙芝居に集まる山谷の子どもたち(カラー)


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私だけの東京・2020に語り継ぐ
俳優・梅沢富美男さん 大衆の感覚、学んだ浅草
毎日新聞2016年11月9日 東京夕刊

吉景館と下町の玉三郎

僕が役者になったのは勘違いがきっかけだったんです。
 父が大衆演劇の座長で、僕は8人きょうだいの7番目。中学時代は東京で活動する両親や兄たちと離れ、姉と前橋市に住んでいました。卒業を控えたある日、座長を引き継いだばかりの長兄が「ハンバーグステーキライスをごちそうしてやる」と言うので上京したんです。当時は高級レストランでしか食べられない憧れの料理だったから、ついつられてね。
 レストランは上野駅のすぐそばにありました。食事が終わると「劇場に遊びに来ないか」。言われるままに浅草の外れ、山谷にあった吉景館という劇場に顔を出すと、一座のある役者が急に体調が悪くなったという。結局、「お前、ちょっと出てくれないか」と舞台に上げられてしまいました。実は全てが兄の計画通りだったんです。

 与えられたせりふは「すいませんけど、親分をそこに座らせてくれませんか」というもの。小学生まで福島市で過ごし、福島弁が抜けない僕は「すまねけんじょも、親分さ、そこ座らせてくなんしょ」とやっちゃって。ところが、客席はどっと沸いたんです。方言が笑われたに過ぎないのですが、僕の方は「すごいな、たった1人の役者が100人以上のお客さんを感動させられるんだ」と思い込んだ。

 兄に乗せられたとはいえ、あの日の喜びが「役者、梅沢富美男」の出発点になりました。

 「下町の玉三郎」として1980年代初めに人気が出た頃、僕らは「地方回りの旅役者」などと紹介されましたが、事実は違います。全国的には全くの無名で、都内の劇場を回っていたんです。当時、東京にはまだ100を超える劇場があり、内回り劇団と外回り劇団がありました。大塚、池袋、巣鴨などを回るのが外回り。僕らは浅草周辺や三ノ輪、北千住などの劇場で演じる内回りの劇団でした。

 なかでも浅草は演劇のメッカで、石を投げれば役者に当たるという感じでした。客に受けず駄目なものは、どんどん消えていく厳しい町。一方で、浅草の人たちの特徴とでもいうのでしょうか、演劇をこよなく愛してくれました。「飯を食べに来いよ。払えなんて言わねえよ。その代わり出世したら払えよ」などと声をかけてくれる食堂の店主ら粋な人がいて、僕らの芝居に欠かせない要素である義理人情を肌で感じました。

 強い者には向かっていき、弱い者はかばうのが浅草気質。テレビのコメンテーターとして僕に声が掛かるのは、そんな浅草気質の影響を受けて歯に衣(きぬ)着せずモノを言う姿勢が視聴者に支持されているからなのかもしれません。

 82年、テレビドラマに出演しヒット曲にも恵まれ、一気に知名度は全国区になり、ようやく本当の「地方回り」ができるようになりました。でも、決してテングにはなるまいと自戒していました。父が口を酸っぱくして、こう説いていたからです。「いいかい、お客様はただで芝居を見てるんじゃないよ。お金をいただいているんだ。そのお客様よりも目線が上になったら役者失格だからね」と。

 僕らは大衆演劇と言われますが、そもそも大衆に支持されない演劇なんてありえない。歌舞伎のように型にはまるだけでなく、お客様本位で新しいものをどんどん取り入れていく。それを教えてくれたのが芝居の町、浅草でした。

 芝居のせりふにも教えがあります。「花の司(つかさ)の牡丹(ぼたん)でさえも 冬は菰(こも)着て 春を待つ」。易しく言うなら、あんなに素晴らしい花を咲かせるボタンの木も冬には枯れ、みすぼらしいむしろをまとって春の訪れをじっと待っている。辛抱して精進すれば、いつか良い日が来るという意味です。大衆演劇も良い時代、冬の時代があり、僕もそれを経験してきました。

 都内の劇場は現在、浅草と北区の十条の2館だけです。でも大衆演劇を求めるお客様はずっといてくださる。今はもう浅草で演じる機会はありませんが、訪れるたびに、売れなかった頃を懐かしく思い出します。

 浅草には大好きな味があるんです。雷門前にある和菓子店「亀十」のどら焼き。あの味は日本一だと思っています。【聞き手・庄司哲也、写真・中村藍】

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 ■人物略歴
うめざわ・とみお
 1950年11月9日、福島市生まれ。劇団座長。歌手として82年に「夢芝居」がヒット。来年2月から、研ナオコさんとのジョイント公演で全国ツアーを行う予定。


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