山谷復興の歴史を今に伝えるテープが… 

 【 初ブログ 】  「山谷の昨日・今日・明日」
  山谷復興の歴史を今に伝えるテープが…

 倉庫の棚に長い時間積まれたままだった古い茶箱の中から、先代、父 帰山仁之助の珍しい肉声テープが見つかった。ロータリークラブの現会員の方に調べて頂いたところ、そのテープの中の講演内容は、47年前の
昭和45年12月28日に催された東京浅草ロータリークラブでの例会卓話だったことが分かった。
 その年に入会したロータリーの新人会員が自己紹介を兼ね、仕事や人生観等に付いて30分程話すイニシエーション・スピーチをカセットテープに記録したもので、その年の資料を見ると、父58歳の時のスピーチは「山谷の昨日・今日・明日」というテーマだったことも分かった。

「山谷の昨日・今日・明日」の講演テープ

 さっそくテープをCDへダビングして、話している内容をチェックしてみたら、我が家の歴史から始まる貴重な物語が記録されていた。戦後の復興期に巨大な寄せ場と化してしまった山谷の成り立ちから、次から次へと起る難題に父がどう向き合ったのか など等…。
 当時、地元で暴力団と縄張り争いをしていた左翼団体から、“ヤマ王”と呼ばれた山谷復興の中心人物、先代「帰山仁之助」が語る真実のことばがそのテープの中に残されていた。
 録音の話言葉は、ほぼ忠実に文字起こしして、聞き取れなかったところは意味がわかるようにつなぎ合わせて、寄せ場の研究者や山谷を卒論のテーマとする学生など、山谷のことに詳しくない人でも理解できるようにした。

 只今ご紹介頂きました、帰山仁之助でございます。今から7、8年前に、山谷におきまして夏になると騒ぎが起きまして、その当時、私の名前がよく新聞に出たり、テレビやラジオなんかで報道されたこともありまして、ご承知の方もおありかと思うんですが、私もそのころ組合長なんかをやっておりました責任上の立場から、名前が出ましたが、もうすでに(浅草簡易旅館組合=現 城北旅館組合の)組合長を退きまして、今年で確か7年になりますので、過去のことになります。
 今日の題である山谷の問題になりますと、浅草地区にとってはあまり名誉な存在でないので、あまり華々しくお話できる話題ではございませんが、この地区で何か起きますと全国に名前が知れるというような地区でございますので、誠に浅草の地区の皆さんに対して申し訳ないと思っているんですが、まあ一つ山谷の地区のことにつきまして、皆さんにお話を聞いて頂きまして、山谷とはこういうものだということをお聞き取り頂きたいのですが。その前に、自分のほうのPRからさせて頂きたいと思います。

-- 三つの名前で呼ばれていた幼少期 --
 帰山(きやま)とご紹介頂き、私自身も「きやま」と申しておりますが、「かえりやま」と読むのが本当なんです。小学校に行っているとき、ずうっと「かえりやま」でやってきたんですが、外では「きやま」と呼ばれるわけです。今日電話帳を調べてきましたら、「かえりやま」には8軒、「きやま」19軒ありました。私が小学校に行っていた大正の末期頃には、「か」の欄には電話がなく、「き」の欄に6~7軒電話がありました。「お前のところ、電話を引けたというがウソだ」なんてこと言われましたし、外へ出て名前を呼ばれますときにも「きやまさん」「きやまさん」と呼ばれても、自分のものじゃないような気がして、用事も後回しにされてしまうこともありました。
 関東大震災後焼け出されて、昭和になる時に「きやま」にしようじゃないかということで、「きやま」にしたわけです。今年親父の17回忌でしたが、親父が亡くなったときに、田舎に電報を打ったんですね。手紙を出すときは漢字で書くから問題なかった。家(うち)の者が書けば「かえりやま」と書くんですが、「きやま」と打ったら福井の田舎に届かなかったというようなこともありました。
 私は二つの名前があったわけですが、私の家にはもう一つ「大山」という名前もありました。ですから子どもの時分は、「きやま」であったり、「かえりやま」だったり、「おおやま」だったわけです。

-- 父親は四股名が「大緑」という明治期の関取だった --
 実は大山という名前は、親父 仁吉が相撲取りでありまして、高登関が親父のあとを継いで年寄大山親方になって、相撲解説で大山という名前が有名になりましたが、現在、松登が継いでいます。松登の先々代が私の親父で、ちょうど大谷米太郎さんなんかと同じ頃相撲をとっていまして、大谷さんとは同じ高砂部屋で、親父は前頭の三枚目までいったそうです。梅ヶ谷とか常陸山なんかと同じ時代だったそうです。

年寄名跡 第八代 「大山」親方の
関取の時に撮った大緑仁吉時代のプロマイド

大緑仁吉のプロマイド

明治42年夏場所の写真番付 上方「東方」最後列中央が大緑仁吉 ↓ 
大緑仁吉 明治42年写真番付
 吉原の大火 (山谷付近の惨状=明治44年4月9日) の後に帰山家は山谷に移り
住むようになった ↓

吉原の大火(山谷付近)

 山谷の土地へ参りましたのは、吉原の大火がありまして、そのすぐ後だそうです。明治の44年に参りまして、それからずっと山谷に住んでいます。
 町名が3回変わっています。あの当時は「浅草町」と言ったんです。それが、震災の区画整理から「山谷」となり、また最近は「日本堤」とかで、この土地にずっと住んでいながら名前も3つ、町も移転もしないのに3回変わったということです。

 ↓ 吉野町辺りから南千住駅方向を撮った明治末期の山谷通り (現在の吉野通り)
明治末期の山谷通り

-- 父親は、力士の傍ら副業として瀬戸物業を始めた --
 商売も、相撲なんかやっとったわけで、どちらかといえば柔らかい人気商売のようなんですが、硬い商売をしなければいけないということで、瀬戸物屋を始めまして。倅(せがれ)を遊ばせちゃいけないってんで、私ら、さんざん怒られながら瀬戸物屋をやっていました。

 ↓ 戦前の陶磁器卸小売業時代の帰山仁之助 (現在と同じ山谷通りの前にて)
戦前の瀬戸物屋 帰山商店の前で

-- 再び焼野原になって材木屋から旅館業へ --
 それから終戦後、一時、材木屋をやりまして、それから現在の山谷の旅館を、古くから土地にいる関係上と、材木屋をやっていたことでもって、今、旅館を主にやっているわけですが。
 終戦の年が、私が33歳くらいのときでした。疎開していた土地が東京都下の檜原村(ひのはらむら)という山の中だったので、東京で材木を売ったらどうかということになって材木をやったわけです。そういうことをやっているうちに、山谷の旅館の復興の話が出てきたわけなんです。

-- 終戦後山谷が労働者の街になったわけ --
 まず、山谷の由来についてお話したいと思うんですが。簡易宿所、昔の名前だと木賃宿ですが、東京では東海道、中山道、日光街道とか、こういう街道の、江戸に入って来る入り口のところに安宿屋ができたわけなんです。

 山谷は、日光街道、奥州街道の入り口で、千住大橋を渡った付近でもって三ノ輪から山谷付近にかけて旅館があったわけです。それから、常磐線の方、奥州、浜街道は業平(なりひら)、房総の方から来るのは深川高橋(たかばし)であるとか、東海道は品川、甲州街道は新宿だとかと街道の入り口に木賃宿があった。今でも、新宿にも品川にも高橋にも業平にもずっとあるわけですが、特に戦前は山谷だけが特に大きかったわけではなかった。戦後、いろんな事情でもって山谷だけが膨張しちゃったわけなんです。
 膨張しちゃったわけは、終戦で皆さん家(うち)を焼かれてしまう。引揚者はぞくぞくと帰ってくる。戦地に出ていた軍人さんも帰ってくる。帰ってはきたが、東京は焼け野原であると。そういう人たちが上野の地下道に住み着きまして、当時大変な社会問題になりました。

 ↓ 東京大空襲で家を失った避難民家族 (聖天町付近の山谷通り) が大八車で
東京大空襲の避難民(聖天町付近)
 
 上野の地下道、浅草の公園、新橋の駅などは浮浪者の吹き溜まりのようになった。当時、厚生省としても、東京都の民生局としても、これらの人の処置に手を尽くした。兵舎のあとに無料で収容してみたり、職業を斡旋してみたり、食べ物を与えてみたり。いくら強制収容しても、1日か2日でまた出てきてしまって上野の地下道に住み着くといったような状況でした。
 当時、上野の地下道は進駐軍の兵站(へいたん)基地でもあって、軍人さんだけでなくて進駐軍の家族も通る。その通路にああいう浮浪者が大勢いるということは大変困ることで、進駐軍からもとてもきつい命令があったりして、厚生省も処置に困っていた。そういうふうなことから、昔から東京の各地区にありますところの簡易旅館の本部組合(大東京簡易旅館組合連合会=現 東京都簡易宿泊業生活衛生同業組合)に相談がありまして、役所の方ではいくらサービスしても一晩で帰ってしまうので本当に困っているが、何かあなたがたの方でいい知恵はないかということになりました。
 
-- 東京復興の労働力を泊める事業に協力 --
 我々旅館の経営者のほうとしても、焼けて戻ってきたいが、土地はあっても資材もなく、金もないので、都の方で進駐軍払い下げの天幕を斡旋してくれまして。公定でもって払い下げを受けまして、新宿、品川、深川高橋、業平、山谷等にテント村ができたわけです。
 当時、民生局の委託施設としてやるということで話ができまして、料金も5円とか10円とか低廉な費用でもって、もし赤字が出たら都のほうで補助をするというようなことで始まったんです。だけど、我々の方としては、タダでも来ないのに金なんか取ったら来ないんじゃないか、という考えもあったんです。
 
 当時、山谷地区の20代から30代の若者たちが中心になって、一緒に協力しまして、上野へトラックをもっていって、「自分で働いて、人の厄介にならずに、自分で宿銭払って食ってゆける者は山谷へ来い」と。「そうすれば、あなた方のために宿ができてるから」と声をかけましたところ、一日のうちに山谷のテントが満員になってしまった。
 その時だけでも1,000人を越す人間が来て超満員でした。それから、業者もどんどん戻ってきて、資材を斡旋してくれた。当時普通の住宅は7坪くらいまでは許可したんですけど、大きな建物は許可しなかった。しかし我々の業界だけはどんなに大きな建物も建てられた。そんなわけで自分で働いて食ってゆくという考えの人がどんどん来まして、山谷の人口もどんどん増えて参りました。

 昭和24~25年頃からテント張りであるとかバラックであるとかが、段々と
本建築の宿に変わってきた(中央にやかんの湯を火鉢で沸かす少女の姿も) ↓

山谷の大部屋式簡易宿所

-- 山谷はテント村から続々本建築の建物へ --
 当時としましては一般の方々がまだ壕舎(ごうしゃ)生活している時分に、本建築の建物に上野の地下道の浮浪者のような人たちが住めるということで、当時大分ニュースになって、山谷の人口が段々と増えていったわけです。
 我々の旅館業というものは、ホテルや旅館とは違い、昔の木賃宿からの簡易宿所ということになりまして、一般大衆を宿泊せしめる施設という位置付けになります。

 ↓ 民生局後援 光の家宿泊所の画像 (昭和25年4月15日 東久邇氏来訪時)
民生局後援 光の家宿泊所

 ↓ 激励に来た東久邇稔彦氏(右から二人目)と一緒の写真に仁吉と仁之助の姿も…
東久邇氏が山谷に来訪した時の仁吉と仁之助
 中央の眼鏡を掛けた恰幅のいい方が都議会議員だった建部順氏で、当時光の家宿泊所の目の前が自宅だった。
創業者の祖父 仁吉は左から二人目、左から四人目の小柄に写っているのが父 仁之助


 ↓ 昭和25年3月に撮った『ほていや』 (玄関が裏の3m通りに面していた頃の旧 本館)
昭和25年3月のほていや旅館
この当時は食に関しては非常にやかましい時代で、家のない者は異動証明がないと配給が受けられなかったため、山谷の人たちに手に入るのはコッペパンくらいだった。父 仁之助は、後に労働者のために市価の半値で食べられる食堂を作ろうと賛同者と出資者を集い「あさひ食堂」を創設した。


-- 旅館経営者が一万人分の炊き出しも --
 ただお客さんを泊めるだけでなく、色々と問題も起きてくる。地元からも反対があったり、当時は働く仕事があったから良かったんですが、今のように諸施設が完備されているような時代ではありませんので、例えば雨が3日も4日も続くと食えない人が出てくるんですね。
 一軒の宿で50人、100人の人間が5日も雨が続くと食っていけない。管理人なり、そこの主人なりが、夕飯を腹一杯食べているのに泊まっているお客さんが腹ペコでいるというようなことは、人道上も人情の上からもできないわけですね。少なくとも3日以上雨が降ると、組合の皆で相談して炊き出しをするようになったわけです。

 炊き出しをしようという頃は、収容者がもうすでに1万人になっていまして、最初の頃は資材もなかったので、雑炊か何かを食べさせようということになって、雑炊を作るにしても1万人の雑炊は膨大なものなんですね。ひと樽に20杯近く作って、食べさせるにしても丼はない、箸はないということでした。
 最初は雑炊で、次の年とその次の年あたりはうどんを食べさせようということになったが、1万食のうどんを今日言って今日の夕方食べさせようと思っても東京中探してもどこのうどん屋さんでも今日作る分てのはだいたい決まっていますから、1万食を食べさせるのは大変なことなんですね。近所のお蕎麦屋さんなんかに協力を得ましてうどんを食べさせたり、また段々と年が経つに従って1万食のライスカレーであるとか、そういうようなことも旅館としてやってきた。一般の人たちには炊き出しなんてことは想像できないと思いますが、当時はそういうこともしなくてはならなかった。

 ↓ 信号の形からして昭和30年代後半と思われる朝の山谷通り
昔の山谷通りの画像

-- 宿泊者のために宿は福祉業務の一端も担ってた --
 問題は、彼らは病気になりやすい。栄養失調とかも多いですから。民生委員にお願いして、病院に入れようとしても、山谷に集まって来る人は移動証明を持って泊まりにこないんですよね。そこで役所へ行くと移動証明のあるところで受けなさいと突っぱねられちゃうんですね。郷里に行って、民生保護を受けられる人なら上野の地下道なんかへ来ないわけで、病院へも行けないで寝込んでしまう。ほったらかしにでもして、もしそこで死なせるようなことがあれば泊まっているお客からもうるさく言われるということで、旅館のほうで医者へかけて、もし亡くなったらお葬式代も出してあげる。そういうような、一般の方々では想像がつかないようなことがいろいろあるんですね。

-- 宿泊する無籍の子供たちへの取り組み --
 私が組合長になった頃、「青少年問題協議会」ができました。山谷地区に、未就学の子供がどれくらいいるか調べてくれと依頼があり、調べましたら、浅草地区だけで150人、荒川地区まで入れますと200人からの未就学児がいるわけです。昭和27、28年ごろでした。
 大変な問題だということで、役所のほうでも骨を折ってくれたが、なす術もなく終わってしまいまして。その年、またその次の年にもう一回調べてくれってんで、そうすると宿泊者の方から苦情がくる。「あんたがたは何のために調べるのか。去年は学校に入れるために調べるって言っときながらやってくれなかった」いうようなことで、私は役所と当事者との板挟みになってしまいました。

-- 学校へ行けない子供たちのために子供会設立 --
 困っているところへ、たまたまある大学の学生が、子ども会を作りたいということで「小さいバラ子供会」というのを作りました。
 初めは子どもたちを学校へ入れてあげればいいじゃないかと簡単に思っていたんですが、学校にあげるとなるとまた大変な問題がある。どこに移動証明があるかわからない。わかっても、お米屋さんに借金があるとか、大家さんに借金があるとかいうことで、米穀通帳を持ってこれないわけですね。

 ↓  子供会での青年の活動を伝える読売新聞記事(昭和41年1月15日)
小さいバラ子供会の活動の記事

 ↓  無籍の子供たちの取り組みで新聞に掲載された当時の写真( 帰山仁之助=右側 )
小さなバラ子供会関連の写真

 そういうことがあって、なかなか役場へこういう人だと言って、戸籍謄本を送ってくれと返信用切手まで入れても、「当役場では所定の申込書に記入して、証書を貼って出さないと送れない」とか言って、お役所仕事でもって簡単にゆかない。

 隣の田中小学校の先生にもお願いしたんですが、給食などでも子どもには食べさせなくちゃならないけど、給食の配給は戸籍分しか入ってこないと。闇の子ですから、その分の食事が減ってしまう。手続きを取ってない子供たちは入学できないということで、学生たちは郷里に帰る時に、愛知県なら愛知県に帰って、学校の手続きをしてくれるとか大変に骨を折ってくれて、次から次にそういう学生が現れまして、たいへん成果をあげて、長欠未就学の子供たちも5年、6年経つうちにほとんどなくなってきましたし、山谷の暴動が起きましてからは、そういうことを訴えましたもので、最近では台英小学校・中学校ができまして、山谷から未就学者がほとんどいなくなりました。

-- 刑法犯罪者などの流入に対して地元警察と連携 --
 あるいは、山谷にはつきものの犯罪問題があるわけです。警察と大いに協議しまして、山谷地区に流れ込んで来る犯人は必ず探し出そうということで、今でも毎日4通や5通の手配書が来るんですが、家出人でありますとかいろいろ問題があるんです。山谷に来た悪い者は全部捕まえようと警察に協力した。

-- 売春婦の追放と愚連隊の締め出し --
 その中で面白い問題は、山谷という土地は労働者の町だったわけなんですが、当時、家のない夫婦者も山谷に出てくる。その中には売春婦もいまして、上野で商売していた。たまたま代議士の田中栄一さんが警視総監時代に、上野の山でもって男娼に殴られるという事件がありまして。上野が売春婦の大弾圧を被ったことがありました。
 その日から上野の山に一人も売春婦が立たなくなりましたが、同時に山谷で商売を始めた。山谷にどっさりいるようになりまして、お隣の吉原さんを凌ぐような売春婦の街になりました。

 吉原の方は警察もあまりうるさくはなかったんですが、旅館業者に対しては場所提供ってなことで、取締りがやかましいんですね。お客さんから同じ料金をとりながら、売春婦を泊めれば処罰される、労働者を泊めれば厚生省や民生局から大変喜んで頂ける。
 これはもう売春婦を山谷から追放しなければいけない。愚連隊を締め出さねばいけないといろいろ骨を折りました。現在、山谷でもって1万人からの労働者がいる中で、他所(よそ)からくる人に愚連隊のことをよく聞かれるんですけども、いることはいるが小さくなって影を潜めているという状態でした。
 20何年間、山谷を運営してきた中で、売春婦は来たけどほんのわずかな間だった。山谷で愚連隊が跋扈(ばっこ)しなかったことはほんとによかったと思っている。

吉原の赤線廃止(昭和33年4月1日から刑事処分の時代)には山谷の宿が
再びもれなくヒモ付きの売春婦問題に直面することに。
別館『えびすや』の小屋裏で発見した歴史的掲示物(昭和33年) ↓

昭和33年(1958年)当時の掲示物

-- 山谷の宿のビジネスホテル転換構想 --
 オリンピックの建設当時が、山谷の利用者が一番多かった。当時は1万4000人もいました。オリンピックが済むと同時にだんだん人口が減ってきました。現在も減りつつありまして、我々業者、商売としては一人でも多くいないといけないのですが、むしろ減ってもらって商売の転換をしなければならないのではないかと考えております。

 ちょうど建物が昭和25年から30年ごろに建てたものですから、まだ潰すには、建て替えるには惜しいし、もうあと5年10年経つと建て替える時期がくると思われます。こういう際には、もう少し高級なものにしていきたい。山谷の労働者も、一時はニコヨンと言いまして、200円か300円にしかならなかったのが、今もう山谷の労働者は大変な景気でして、3,000円以下ならほとんど働きにいかない。

 ↓ 早朝の山谷通りは、大勢の建設作業員が集まる場所だった(昭和45年頃)
昭和45年頃の山谷通り

都電22番線が廃線になった昭和46年3月以降、あさひ食堂前の山谷通りには
職を求めて群がる労働者の中を都バス(東42系統)が走るようになった ↓

あさひ食堂と山谷通り

 労働者の心理といたしまして、3,000円稼いできて、宿銭は今200円くらいですから、あと2,800円残る。飲んで食べて1,000円で終えて、あと余った金を貯金でもして、明日のことを考える人がいれば山谷もよくなるんですが、考えないような人がいつまでも残っているわけですね。
 そのために結局、明日も明後日も働きにいかないとか、金があれば競輪競馬に行ってしまうとか、着ているものもだらしがないと。

 取るものは取って、もっともっといい施設にして、地下鉄の工事をしている労働者のような人でも、山谷から出て行く時にはせめて背広を着て出て行って、現場へ行って作業着と着替えて働けるようにもっていくべきじゃないか。というのが、私の考え方です。現に、山谷で泊まらずに今の各建設業者の飯場が非常に良くなりまして、いわゆる高級なところはお客さんが来るけれども、悪いところは段々空いてくるというふうになってきました。
 昔は山谷の労働者の方々はほんとに収入が少なくて、みじめな生活をしていたので、我々も安い料金でもって彼らに暖かい寝床を与えなければいけない、という考え方でしたが、これからは、料金は取るだけは取って、よい施設に泊めて、寝床ばかりじゃなくて身の周りまでよくなるようにもっていかねばならない、というのがこれからの課題じゃないかと。
 そういうふうに考えているわけでございまして、現在、考えているのがビジネスホテルという形です。一般のサラリーマンの人がちょっと遅くなったという場合に、帰るには電車がなくなった、東京のホテルに泊まるには3,000円も4,000円もかかるという人に大いに利用してもらえるんじゃないかと考えております。

 5年、10年後の建て替えの時期には、そういうような一般の皆さん、例えば地方から出てきて泊まるところがないという人たちにもご利用いただけるような施設にしていって、山谷は暴動であるとか、日雇い労務者であるとかのイメージを消していきたい。ここは、労働者の人でもせめて背広でも着て出入りしなければ、山谷には来れないんだというような所にしていきたいと、このように考えているわけです。

-- 山谷の発展と地域のイメージチェンジの思い --
 生活に困った人はどうするんだと言えば、今の都知事が社会主義者の美濃部さんですから、困った人を助けるのはしょっちゅう言っていることで、美濃部さんにお願いして、山谷をもう少し良い所にしていったならば、いわゆる山谷という悪いイメージも浅草から消せるのではないかと思っています。
 南千住の駅に隣り合わせまして、普通ならもっと発展しなければならない山谷が、駅の近くでありながらほとんど発展できなかったのは、隅田川貨物駅とかガスタンクとか色々問題はありますが、我々の責任も大いにあると思っているわけです。そういう面からも我々は努力していきたと思っているわけです。

 ただ、ここで一つ、地元の方が、山谷といえば責任をすべて旅館へ負わせているわけですが、1万人の労働者が1日3,000円稼いで参りますと、3,000万円になるわけです。年額にすると、膨大な額です。200円払って、あとの額はみんな近所の土地が潤っているわけなんですが、我々はどこへお金が落ちている分かりません。
 これからはもっともっといい人に来ていただいて、山谷のイメージをチェンジしていきたいと、将来の夢というほど大きなことではございませんが、そういう土地にして行きたいと考えている次第です。


 終戦直後の混乱期に、山谷で復興事業の中心的な役割をした父帰山仁之助。上野の野宿者一掃と山谷の街の復興。この二つの目的を果たし得たのも束の間、昭和30年代後半から度々起きた山谷暴動により、皮肉にも「山谷」というの名の負のイメージは全国的になっていった。

ビジネスホテルタイプの簡宿第一号の建設現場(昭和47年頃) ↓
ビジネスホテルタイプの工事現場

 今は亡き父は、生前、「山谷は浅草寺にも近いから労働者がだめになっても観光の街としてやってゆける」と断言し、このテープから、昭和40年代にはすでに山谷の宿のビジネスホテル化を目指していたことが分かる。そして、ロータリーでのスピーチから三年後、父の考えていた、まったく新しいタイプの宿泊施設が現実のものとなる。

昭和48年7月に山谷にまったく新しいタイプの簡宿が完成、落成披露宴
が山谷の「八千代」で行われることを知らせる案内状 ↓
落成披露宴の案内状
 落成の披露宴は、唯一山谷に存在した結婚式場「八千代」で、当時の台東区長も招待して行われ、宴会の後には出席者に新築なった施設をお披露目した。お披露目をした理由は、新タイプの宿泊施設を山谷で広めたいという父の強い思いがあったからであり、実際その後山谷では、バブル期までの間にビジネスホテルタイプへの建替えブーム(第一次建替えブーム)が起きた。その後、平成19年(2007年)には第二次ビジネスホテル建設ブームが起き、一年間にドミトリーを含め600室の増室があり、その都度マスコミで話題になっていた。

 まだ山谷の宿の客室が引き戸が当たり前で、宿泊者自身が錠前を取り付けるような時代に、鉄筋コンクリート造りでシリンダー錠付きの個室全103室の宿が完成。全室冷暖房完備で当時としたら大変珍しかったエレベーター付の簡宿だった。
 本格的な建設作業員用のビジネスホテルということで、父は、労働者たちが「俺は山谷のビジネスに泊まっているんだ」と自慢できるような宿を作りたいと言っていて、当初は一泊800円程度の宿泊代を考えていたようだった。しかし、建設中に第一次オイルショックに見舞われ、建設資材が調達できず工期が大幅に遅れただけでなく、完成後も建設不況で営業が順調に推移するまでにはそうとうの時間が掛った記憶がある。

 昭和35年から小さいバラ子供会でボランティアをしていたという高澤充朗さんの書いた記述を読むと
 『上野公園から隅田公園へ追いやった浮浪者がまた上野公園へ戻る、という繰り返しに手を焼いた東京都は、ついに山谷に目を付けた』
 『よく対応したのが、1960年代に山谷のドヤに住む子供たちの支援で、時の労働大臣「石田博英」氏や朝日新聞厚生文化事業団の「寺田」氏の応援を得て有名人になった「帰山仁之助」(後に全国青色申告会会長)であった。彼の優れた先見性とアイディアと尽力と暖かい人柄によって、その後の山谷が形成されたといってよかろう』

と書いてあった。

今や家族連れなどの一般旅行者や外国人が山谷の簡宿に泊まることも山谷通りを歩いていることも珍しくない時代になった。
泪橋交差点周辺は、ビジネスホテルタイプの高層階の簡宿が目立ってきた ↓
現在の泪橋交差点の画像

山谷の安宿街の中心点「泪橋」交差点でカメラを向けたら… ↓
泪橋交差点で手を振る外国人旅行者

あしたのジョーまつり
 ↑ 最近の山谷では、あしたのジョーまつりなどのイベントも開催するようなった

 もう2017年の元旦の朝だが、今の山谷通りは、女性客やカップルはもちろんのこと、ディズニーリゾートや豊洲にあるキッザニアなどのテーマパーク目的に上京する小さな子供連れの家族や外国人旅行者も珍しくなくなった。この今の山谷の現状を父が見たらどう思うのかとても興味がある。


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