新吉原遊郭 “ためになるトリビア” 

新吉原のトリビア



  『ほていや』から浅草方面へ一個目の信号を右折、300㍍程歩いたところの交差点。その昔、遊客が名残を惜しんで振り返ったという場所に今も見返り柳が寂しげに揺れている。
 現在は「千束」という住居表示に変ってしまったが、その先にある大きな“くの字カーブ”を過ぎたところは、江戸の町民文化を語るには避けて通れない特別な場所だった…。

 今の日本橋人形町にあった遊郭「元吉原」は、明暦3年(1657年)、江戸城の天守閣までが焼け落ちたという大火災(振袖火事)により全焼、江戸幕府は同年、この火災で焼失した遊郭を浅草観音裏手の田んぼ地帯の山谷周辺に一旦移し仮宅営業させ、「新吉原」の完成後、正式な営業が新たに始ったとされている。

↓ 江戸 浅草吉原「松葉屋」の花魁道中 一葉桜まつりでのスナップ
新吉原「松葉屋」花魁道中

 その場所は、計画的に小高く碁盤目状に区画され、高い塀とお歯黒どぶと呼ばれていた幅二間(3.64㍍)の堀に囲まれ、外界から完全に隔絶されていた。江戸で唯一幕府公認のこの遊郭は、約3万坪(10万㎡=東京ドーム約二個分)の広さを持つ特別区域だった。今は浅草警察の厳格な管理下にある特殊浴場街になっているが、吉原の中を歩くと平成の現代でもお江戸の昔と変わらない道筋と共に、町の区割や地形までもがほぼ同じ形で残っているから興味深い。
今回は、この「新吉原」のトリビアを紹介します。


  江戸名所図会「新吉原町」 吉原大門へ続く五十間道のくの字カーブは、
↓ 今とまったく変らないということが分かる
江戸名所図会「新吉原町」

  「吉原大門」の交差点(衣紋坂があった辺り)から「五十間道」の入り口
↓ なるほど、この急カーブなら日本堤を通る将軍様から大門も廓も見えない
「五十間道」の入り口

  「五十間道」のくの字カーブ途中(吉原大門交差点から吉原側へ入った場所)
↓ 正面の二棟のマンションが吉原で最後の特殊飲食店「松葉屋」があった場所
「五十間道」

「新吉原」の出入りは、土手通りから衣紋坂を過ぎた場所にあるくの字カーブ(五十間道)の終わりにあった「大門口」という門一ヶ所のみで、「新吉原」からは夜の営業も許可されたという。
 大門は、明け六ツ(午前六時)の拍子木の合図で開けられ、引け四ツ(午後十時)に閉められたが、それ以後は横木戸から出入りした。実際は九ツ(深夜零時)に四ツの拍子木を打ち二時間ごまかしたといわれ、閉門後も一刻(いつとき二時間)営業され、出入りは大門の横木戸を使ったという。夜の出入りが許可されたのを契機に、客筋は町人が激増したという。
 また、遊女の数も「元吉原」時代は千人以下だったものが、江戸時代の終わりの「新吉原」時代には五千人位いたといわれている。

↓ 「新吉原遊郭全図」 1846年の地図 右手くの字カーブ方向が『ほていや』の方角 ⇒
新吉原遊郭全図
吉原の地形は、東西南北を意図的に左下側へ45度傾けて作られている。一説には北枕にならぬ工夫だったと伝えられている。


吉原の歴史は火災の歴史でもあり、江戸時代には、大きな火災発生だけでも36回、うち全焼が21回もあったそうで、その度に周辺の山谷や今戸など他の場所で仮宅営業(かりたくえいぎょう)を続けすぐまた再建を何度も繰り返してしたという。実は、一軒でも焼け残ると幕府から仮宅営業の許可が下りないということから、遊郭で大火があると遊郭のすべて残らず燃やしてしまったのだと聞く。町火消は廓の中に入れなかったということで、周辺の大屋根から遠巻きに眺めるしかなかったらしい。
 近代以降でも、明治44年(1911年)の吉原の大火はじめ、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和20年(1945年)の東京大空襲でもほぼ全焼したが、いつの時代でも僅かな間をおいてすぐに復活、営業再開を繰り返し、元吉原時代から売春防止法施工の猶予期間も含め、昭和33年(1958)2月28日の閉鎖まで、吉原は実に341年間も続いたことになる。

↓ 「浅草田甫 酉の町詣」 ⇒歌川広重の版画名所江戸百景より「浅草田甫 酉の町詣」
 「浅草田圃」とは、吉原を意味する隠語で、部屋の二階の畳の上に置かれた熊手簪から、季節は霜月(しもつき=旧暦11月)の酉の日ということが読み取れ、酉の市詣の行き帰りの行列が、遠くの田んぼの中に描かれている。 
 この浮世絵は、絵の中の装飾と道具立てだけで鷲神社に隣接している“吉原”という場所と部屋の主の商売が“遊女”だということを暗示している。例えば、猫は格子の前に座る遊女を暗喩、窓の下の腰紙には“ひやかし客”を意味する「吉原雀」が描かれていて、広重の作品としたら珍しく遊び心満載の色っぽいテーマの絵になっている。


【新吉原で起きた有名な出来事】
● 寛文9年(1669年)吉原で大喧嘩した大番が自殺、同行の同僚二名も切腹となった。
● 元禄時代、吉原の歴史の中でも一世を風靡したのが、紀伊國屋文左衛門(紀文)と奈良屋茂左衛門(奈良茂)との吉原豪遊合戦だった。二人は、江戸の大火災による建設特需の中、互いに材木商として巨万の富を築いたが、紀文は吉原を一晩千両で貸切にしたり、奈良茂の遊ぶ後には大きな財布の中から一分金がこぼれ落ちていたという伝説もあり、その二人の遊興振りは、小唄「大尽舞」に唄い込まれ世に広まったという。
● 延宝7年(1679年)三浦屋の遊女「小紫」が刑死した恋仲の平井権八の後を追い自害、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」の題材となった事件。
● 宝永6年(1709年)下野(しもつけ)佐野の豪農、佐野次郎左衛門が兵庫屋の遊女「八橋」を殺害、歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」の題材となった有名事件。
● 寛保元年(1741年)姫路藩主榊原政岑(さかきばらまさみね)が、高尾太夫(たかおだゆう)別名“榊原高尾”を1,800両で身請け、このことが原因で徳川吉宗の怒りを買い、政岑は強制隠居され、榊原家は越後高田に転封となった。
● 天明5年(1785年)吉原大菱屋の遊女「綾衣(あやぎぬ)」と旗本の藤枝外記(ふじえだげき)が心中、「箕輪心中」のモデルとなった事件で「君と寝ようか五千石取ろか…」の歌で有名に。


 吉原が華やかし時代は、船宿の二階は飲食出来る文化サロンのような場所だったらしく、その頃の山谷堀は下の画像の上流で狭くなっていて小船でもUターンが出来なかった。なので御大尽でも舟を降ろされ、そこから徒歩か籠で日本堤(土手通り)を廓の玄関、大門口まで通わなくてはならなかった。

↓ 山谷通いの粋客が、小舟で新吉原へ向う通い道、「雪の山谷堀」 明治初期の写真
屋根船が浮かぶ雪の「山谷堀」

  冬の屋根船の中には、意外やコタツも用意されてい
↓ て思いの外快適だったらしい(江戸時代の浮世絵)

歌川豊国「雪見八景 晴嵐」

【吉原関連用語の基礎知識】
「吉原」
⇒日本橋の人形町に“元吉原”があった当時、葦(あし)の生える原っぱということで「葦原」(あし原)といったのが「悪(あ)し原」という縁起の悪い音の響きにも通じることから、葦原(よし原)が転じて善し原⇒吉原(きちげん=よし原)と呼ばれるようになったのが通説とされている。
「山谷通い」 ⇒吉原へ通うには徒歩、馬、駕籠(かご)の外に小舟で行く四通りの方法があったという。猪牙舟(ちょきぶね)という舳先のとがった小舟を仕立てて、柳橋から大川(隅田川)を上って首尾の松の目印を超え、大川橋(今の吾妻橋)をくぐり、竹屋の渡しの辺りにあった掘割を左へ折れる。この水上のアクセスルートは、音無川へ続く山谷堀の水路を使って吉原遊郭へ向かう江戸庶民憧れの通い道だったとか。この粋なお大尽のアクセス方法は、当時「山谷通い」と呼ばれていた。山谷通いをする粋客が乗る船を「山谷船(さんやぶね)」、通人が履いていた草履を「山谷草履」(さんやぞうり)といった。
「土手八丁」 ⇒土手八丁とは、吉原土手、つまり日本堤のことである。元々は江戸幕府が江戸を水害から守るため、全国の諸大名に資金を出させ、待乳山を削って作らせたという土手道、堤防のことをいう。吉原移転後、その堤防は遊客の通う道となった。俗にいう「通い馴れたる土手八丁」とは、日本堤から吉原へ向かう通人のことを言っている。
ある者は徒歩で、ある者は馬子が引く馬や駕籠に揺られ、またある者は山谷堀に浮かぶ小舟から降りて土手八丁を「首尾よくゆきますよう」にと期待を胸に吉原へ通ったらしい。
「衣紋坂」 ⇒大門口へ向かう遊客が日本堤から下り降りる坂のことで、ここで衣紋を繕ったことからそう呼ばれた。
「五十間道」 ⇒鶴御成(つるおなり)と呼ぶ鶴を用いた鷹狩に向かう江戸将軍から吉原を見えなくしたと伝えられる大きく“くの字”に曲がった急カーブのこと。
「大門」 ⇒ダイモンではなく“おおもん”と読む。吉原の周囲を囲むお歯黒どぶには、九ヶ所の跳ね橋が掛けられていたそうだが、遊郭への入口は大門のみで、女性の出入りは厳格な制限があったらしい。しかし、酉の市の日だけは跳ね橋が下げられ、吉原の通り抜けが許されたという。
「仲之町」 ⇒仲之町(なかのちょう)とは、吉原の中央に位置する250mのメインストリートの通りの名前で、町の名前ではない。歌舞伎に出てくる位の高い花魁のデモンストレーションの行列“花魁道中”は、引手茶屋への行き帰りにこの仲之町を通った。通りには春なら桜というように、季節々に旬の草花が植え替えられたという。
「暮六ツ」 ⇒現代の時刻で午後6時頃で、若い衆の鈴の音を合図に夜見世が一斉に開く時間。
「張見世」 ⇒遊郭の店先に遊女が居並んで客を待つことをいい、格子越しに品定めをするショーウィンドーのような場所に遊女が座った。
「すががき」 ⇒見世清掻き(みせすががき)という、分りやすく言えば吉原の廓の開店オープニングを知らせるBGMのことを指す。“暮六ツ”に縁起棚の鈴を鳴らすのを合図に、吉原芸者や新造衆が激しく掻き鳴らす三味線の演奏は、最後の遊女が出揃うまで連続して長く続き、遊里中に響いていたという。
「花魁」
⇒花魁(おいらん)とは、先輩格の姉女郎の中でも上位の呼び名で、遊女の見習いといえる禿(かむろ)や妹分の新造らが自分の仕える姉女郎をさして「おいら(己等)の姉様」と呼んだことから転訛した言葉だと伝えられている。
「花魁道中」
⇒花魁道中(おいらんどうちゅう)とは、花魁の中でも最高位を示す末の位の太夫(たゆう)が、馴染みの客を引手茶屋まで出迎えた時の行列のこと。吉原のメインストリート仲之町を、遊女の見習いの禿(かむろ)を先頭に三枚歯の高下駄を履いた花魁が妹分の振袖新造、番頭新造を後方に引き連れながら外八文字の独特の歩き方を披露した。吉原独特のこの歩き方は、一説には京都松原の内八文字の歩き方にならったと言われている。
「引付」
⇒初会の客が廓の中で初めて遊女と顔合わせすること。「目を回すとことじゃありませんよ」、「学校では教せぇないよっ」などと、よく吉原を舞台とした落語で引付の説明の時に笑わせてくれる。遊郭には引付部屋という宴会場が二階にある。遊郭の入口と引付部屋とへ続く幅の広い階段とは死角になっていて、後から入ってきた客と視線が合わないように建物内部の配置に工夫がされていた。
「ぎゅう」
⇒ぎゅうとは、“妓夫”の端折った言い方で、牛太郎・牛公・牛ちゃんなどとも呼ばれていた若い衆のことを指す。遊郭では主に客引きなどの店番の担当で、廓でもめ事があった時などはボディーガードなど雑用の役目もした。現今の吉原ソープランドの敷地内に立っている「黒服」と役割が似ている。俗に「宵に格子ですすめた牛(ぎゅう)は、今朝はのこのこ馬(うま)になる」の意味は、吉原で遊び過ぎて勘定が足りなくなった客の家まで付いてゆく仕事もその“ぎゅう”の役目で、その昔は、客を連れてきた馬子に駄賃を払って遊客の家まで取り立てに行かせた時、馬も一緒に家まで引いて行ったことから、集金に家まで同行する行為のことを馬(付け馬)と呼ぶようになった。「暮六ツには“牛”だった若い衆が、明け六ツには“馬”になって家まで取り立てに付いて行く」ありさまを皮肉っている。
吉原遊郭では、若くても“遣り手婆”(やり手ばばぁ)は「おばさん」と呼ぶのと同様に、“ぎゅう”は歳を取っても「若い衆」とも呼ばれていた。
「お歯黒どぶ」
⇒遊女の逃亡を防ぐため遊郭の周囲を囲むように設けた堀で、黒く濁っていてまるでお歯黒の液(かね)のようだったからそう呼ばれた。
「ありんす国」 ⇒新吉原の別称で、お国訛りを隠すためや艶っぽさを出すために「 〇〇 ありんす(=あります) 」 などという独特の言葉使いをしていたことによる。ありんす言葉は、一説には京都言葉にならったとも言われている。他の岡場所の類と区別するために、北国(ほっこく)という呼び方もあった。
「吉原雀」 ⇒元の語源をたどれば、葦切(よしきり)というスズメ目ヒタキ科の鳥のことをもじっているらしい。葦原(あし原=ヨシ原)に巣を作って仰々しく鳴き立てることから、吉原のことを隅々まで良く知っていて、しかも鼻にかけて自慢する割にはお金は使わないで、廓の中をフラフラと歩き回る“ひやかし”の類の者のことをそう呼んだ。
「ひやかし」 ⇒江戸の昔、山谷の農民が浅草寺の薦めで始めたサイドビジネスからきた言葉。山谷堀の紙洗橋周辺では、昔から「漉き返し紙」の地場産業が盛んだった。再生紙、今風に言うなら“リサイクルペーパー”の落とし紙(トイレットパーパー)を作っていて浅草紙と呼ばれていた。紙切れ屑を煮た後に冷ましたり、紙を水に浸すことを「冷かし」といって、その作業の待ち時間の間、漉き返し職人が近くにあった廓の中で暇をつぶしたことから転じて、物を買う気がないのに買う振りをすることを「ひやかし」というようになったという。
「土手の道哲」 ⇒「伊達騒動」の原因になったといわれている三浦屋の「万治高尾」太夫との関係でも知られ、歌舞伎、落語などにも名前が出てくる“道哲”とは、泪橋を越え、小塚原(こつかっぱら)のお仕置き場(刑場)へ引かれていく罪人達を、日本堤の土手道から念仏を唱えて見送っていたという寺男のこと。猫好きの花魁にまつわる招き猫伝説が伝えられる「西方寺」を道哲が開基した伝承から、後に西方寺自体のことを“土手の道哲”と呼ぶようになったという。関東大震災後、寺は西巣鴨へ移転、現在は北部浅草に寺は存在しない。
「投げ込み寺」 ⇒山谷地域の北西、三ノ輪橋の近くにある「浄閑寺」についた俗称。「吉原で遊女が病死したり心中したりする者は、お経も読まず墓も塔婆もなく、ただ、お金を二百文添えてこの寺に送って惣墓(そうばか)という穴の中に投げ込んで弔われた」という。浄閑寺のHPによると、安政の大地震で大勢の遊女が廓の中で死んで、この寺に投げ込まれ葬られたことがそもそも“投げ込み寺”と呼ばれるようになった由来だという。
「吉原七不思議」 ⇒吉原のネタを皮肉ったユーモラスなダジャレの羅列。“七不思議”といっても実際には七以上あった。

 吉原の幕引きには、山谷の宿に思わぬ難題も投げ掛けられた。当時の宿には、昭和30年代の後半頃までは戦災で家を失った家族や女性も多く滞在していたが、吉原の女性の流入は治安面での心配もあったので、宿始め、地域が一体となって行政に協力して対応してきた歴史があった。東京オリンピックの前頃から女性や家族を連れた宿泊者は、都の政策で都営アパートへ移り住むこととなった。山谷が男社会になっていった経緯がここにあった。

↓ 別館『えびすや』の小屋裏で偶然発見した歴史的掲示物(昭和33年とある)
昭和33年(1958年)当時の掲示物

 亡くなられた「松葉屋」の女将さん福田利子さんと私の母はPTAのつながりで仲良くさせて頂きましたが、その著書「吉原はこんな所でございました」を読むと、売春防止法が、昭和32年(1957)4月1日から施行、刑事処分に付いては一年間の猶予期間が設けられ、昭和33年4月1日からということになったそうだが、3月31日が最終日でも、わずかなお店を除いて2月28日までには店は閉じられていたそうだ。

はとバス「夜のお江戸コース」

 その年の11月、松葉屋は「花魁ショー」が楽しめる料亭へ、はとバスの「夜のお江戸コース」として再スタートを切った。ちょうど酉の日の晩だったそうだ。東京を訪れる外国人の夜の定番ツアーとしてとても人気があった。
 見返り柳辺りの土手通り沿いに、毎晩決まって外国人を乗せた「Tokyo Night Tour」と書かれた大型バスが停まっていたことをよく記憶している。今も松葉屋が続いていたなら、山谷に泊まる外国人もきっと喜んだに違いなかっただろう。


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