ニコヨンの家 建設計画 

忘れ去られた山谷の風景 ~ニコヨンの家 建設計画~



 最近、古いアルバムに貼ってあった写真を見る機会があって写真を整理しながらPCに取り込んでいたら、山谷のどこかで撮ったであろう同じ人物が座っている集合写真が複数枚あることに気が付いた。
 その人物を調べてみたら、元皇族の「賀陽宮恒憲王(賀陽 恒憲)」様だったことが分かった。奥様と連れだって山谷に来た時の写真だったことだけは推測できた。奥様は、九条道実公爵の五女「恒憲王妃敏子(九条敏子)」様で、貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる天皇家の家系である身分のお高い方だったことも分かった。

賀陽宮様来訪 ①

 いろいろと調べてみると、その大きな庭で撮った集合写真の場所は、『ほていや』から数十メートルの場所にある「大林酒場」の裏にある日本庭園で撮ったことが分かった。裏通りの別館『えびすや』側から見れば玄関の真ん前のブロック塀の中がその撮影場所だった。

大林酒場の裏庭で撮った集合写真(昭和24年1月)には賀陽宮様と令夫人が…
中央後ろに石灯籠の先端、右上の屋根は『えびすや』ができる前の平屋の建物 ↓

賀陽宮様来訪 ②
上の写真は、別の日にほぼ同じメンバーで同じ場所で撮られたもの。灯篭の下の眼鏡を掛けているのが父 帰山仁之助。

 確かめるために大林酒場に行くと、営業中にも拘らず大林のオーナーが快く対応してくれ、厨房にいたお姉さんにも上の写真を見せてくれて、自宅の裏庭で撮ったことに間違いないことが確認できた。裏庭だということは写真中央にある石灯籠の先端で分かったとのこと。後日『えびすや』の二階から庭を見下すと、確かに今も同じ位置に石灯籠があった。

68年の年月を経た今も同じ場所に立つ石灯篭 ↓
大林酒場の裏庭にある石灯篭

 この写真が撮られた昭和24年頃といえば、東京周辺では、いまだ一般の戦争罹災者の多くは壕舎(ごうしゃ)住宅やバラックのような粗末なところで生活していた。しかし、山谷では東京復興の働き手の街として本建築の簡易宿所が次々と造られようとしていた時期で、住む家を失い上野の地下道などに野宿同然に住み付いていた罹災者が、真新しい新築の宿に泊まれるということで当時マスコミでずいぶんと話題になったそうだ。
 父 帰山仁之助の昔の音声テープを聞くと、当時普通の住宅は7坪くらいまでしか建てられず、大きな建物は許可されなかったという。その時代、山谷の簡宿はどんなに大きな建物も許可された。それは戦争罹災者保護と復興事業の労働力の街という大義名分があったからだろう。

 同じアルバムには、終戦後、皇族出身者で内閣総理大臣を務め、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した「東久邇宮稔彦王(東久邇 稔彦)」様が山谷に激励に来た時に撮った集合写真も複数枚あり、戦後復興期に元皇族の力を借りながら山谷の復興を模索していたことが分かる。
 前出の写真の中には、戦後の復興事業に協力した、当時山谷の「7人組」と呼ばれたメンバーも写っていた。しかし、なぜ大林酒場の裏庭の写真だったのかをいろいろ調べてみると、当時の山谷では、東京復興の労働力は集められたが、労働者たちが安く食事を食べられるところや、洗濯をする場所、散髪をするお店も少なかった。
 戦後の混乱期でもあり、福祉行政も行き届いていなかった時代なので、今なら東京都や特別区が行うことを、当時は宿の経営者が福祉行政の一端を担っていたのが実情だった。そこで賛同者を集め出資してもらい民間の組織として労働者のために何かできないかと考えたのが「ニコヨンの家」建設計画で、その建設現場の第一候補が大林酒場だったようだ。

 ニコヨンの家とは、簡易宿所と併設した、当時の市価の半額で食べられる大衆食堂から無料の床屋や洗濯場等など、真面目に働く労働者のためのパラダイスを山谷に作ろうという考えから出た名称だったらしい。

賀陽宮様と撮ったこの写真の日時、場所は分からないが、多分時期は師走のようだ ↓
賀陽宮様 山谷来訪 ③

 実際のところ、計画は昭和28年頃に動き出したようだが、その計画の具体的な内容としては、浅草簡易旅館組合加盟者の中の、賛同者にひと口1万円を出資してもらって土地と家屋を確保、民間で運営し、一ヶ月以上宿泊して一定以上職業に付いた者には理髪券を無料で出し、ひと月に一回散髪のサービスするとか、大衆食堂は、市価の半値で一食(米1合3匀)30円止りの安い食事を提供しようというものだった。
 その外、現今のハローワークのような授産所も設置するとか、宿泊している妻帯者の妻が働いていない世帯の人のために、旅館の布団やシーツ、ひとり者の見回り品の洗濯、繕いをさせ、日当を出そうというものまであった。
 
 ゆくゆくは都の民生局と相談しながら、援助を得られれば30円~50円程度の掛金でニコヨン医療保険や中古のバスを使った建設現場と山谷を結ぶ「シャトルバス構想」などと夢も大きく膨らんでいったらしいが、やっと昭和30年にまず簡易宿所(宿泊部)と巨大大衆食堂(食堂部)が山谷四丁目にできた。開店当時は、食堂では米を売ってはいけない時代だったのに、麦飯六分の割合に米四分混ぜていたことが殺気立つほどの雰囲気を生み、延々長い行列が泪橋にあった都電の停留所までできた。周辺のお店からも苦情が出る程利用者が集まっため、当初の計画を変え、食堂部中心の営業になってしまったという。

 ニコヨンの家建設計画があった昭和24年頃から昭和30年代前半は、山谷では大きな事業が続けざまに行われていたが、その多くが7人組が担ったと伝え聞いている。最近その時給仕をしていた人から聞いた話だと、『ほていや』は当時裏の3m道路に宿の玄関があって、三畳の帳場の裏手にあった六畳間に夜11時頃に七人組が集まって、近くにあった中華料理の「酔仙楼」や日本そば屋の「婦久助」から出前を取って夜食を取りながら山谷復興の構想を練っていたという。

(※) 広辞苑によると「ニコヨン」とは、昭和20年代の半ば、日雇い労働者が職業安定所からもらう定額の日当が240円(100円を「一個」として240円を二個四⇒ニコヨン)であったことからそう呼ばれた。その後、日雇い労働者そのものを呼ぶ別称となったが、マスコミでは差別的な用語だとして使われなくなった。しかし、今はもう死語になってしまっているのでそのまま使った。
 

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