イトーヨーカドーのルーツは山谷だった! 

旧 羊華堂洋品店の戦前の店舗は
 東京市電「山谷町」の電停前にあった!


 現在、合計1.66 k㎡の広さに区割りされている山谷地域の中を調べてみた。すると、ファミリーレストランチェーン「デニーズ」は2軒、コンビニチェーン最大手の「セブンイレブン」にいたっては7軒もあることが分かった。
 実は「セブン&アイグループ」、というよりはイトーヨーカ堂始め、日本におけるデニーズやセブンイレブンなど等、イトーヨーカドーグループの発祥の地が、東京・下町、浅草山谷にかつてあった「羊華堂洋品店」だったことが分かった。それが正しいことを示す昔の写真も見付かった。


(写真の頃は伊藤家の異父兄弟の母親ゆきさんの弟である吉川敏雄氏が経営していた)
下は昔の羊華堂浅草店の写真で、左上に「昭和7年(1932年)」撮影と書かれている ↓

羊華堂 浅草山谷店(昭和七年)
 当時、羊華堂の左隣は旧「安田銀行」の建物だった。現今のみずほ銀行の前身で、富士銀行と呼ばれていた時代もあった。アールデコ調の装飾が入った独特の外観は今でも健在で、1階はカラオケパブ(ハッピ―)、2階は理容室(セブンスター)として現在も利用されている。

安田銀行だった左側の建物上部には、両替商の印である分銅の中に漢数字
の「三」という安田財閥の社章があった ↓
旧 安田銀行の壁の装飾

山谷時代の羊華堂と今の画像

↑ 戦前の羊華堂と旧安田銀行が並ぶ画像(上)と現在のイタリアンのお店(下) ↓

羊華堂のルーツの場所

 羊華堂の名の由来は、「めうがや(みょうがや)」という老舗の足袋店で奉公して、のれん分けしてもらって使っていた同じ屋号を、これからは洋服の時代だと、大正期に銀座でとても繁盛していた「日華堂」という洋品店にあやかって、これを、伊藤家の異父兄弟の叔父さんである吉川敏雄氏の干支だった「未(ひつじ=羊)」の字をひと文字入れ替え「羊華堂」としたそうで、以後「ヨーカ堂」⇒「ヨーカドー」と屋号が変遷することになる。
 羊華堂創業者の吉川敏雄氏は、浅草山谷の外にも千住や荻窪にも支店を出店していたというが、日本最初のボランタリーチェーン「全東京洋品商連盟」を7人の仲間と設立するなど時代を先取りした商人だったようだ。

 このページの一番上の昭和7年当時の浅草山谷店の写真を見ると、スターバックスのロゴに似た突出し看板に全東京洋品商連盟の文字が確認できる。写真中央部に大きなサイコロの飾りがあり、お店の周囲にも小さなディスプレイ用のサイコロがあちこちに見えるが、どうもサイコロを使って出た目で商品の値引き率を決める売出セールをしていたらしい。今でも使っているカタカナを使った外来語の表現など、当時としたらハイカラで先進的な小売店だったことがうかがえる。

セブンイレブンなどイトーヨーカドーグループのルーツが山谷だったことを伝える漫画
小学館のまんが児童図書にも羊華堂の誕生秘話が

 この漫画は、小学館の「現代伝記まんが図書館」のシリーズの中の「真心を売って日本一(伊藤雅俊物語)」という児童図書で、(株)イトーヨーカドーの協力で平成2年(1990年)出版の「小学三年生」に掲載された。
 漫画の中には、都内で三店舗出店していた叔父の洋品店を、昭和15年(1940年)にのれん分けしてもらう形で、伊藤譲氏が山谷三丁目で洋品屋を開業した日を、「これが今日(こんにち)のイトーヨーカドーのはじまり」だと書かれている。

 また、平成15年(2003年)の4月から日本経済新聞から30連載がスタートした「私の履歴書(伊藤雅俊)」の中にも同様の記述が書かれていて、イトーヨーカ堂元名誉会長伊藤雅俊氏の異父兄、譲氏が1956年(昭和31年)に持病の喘息のため44歳の若さで亡くなったことで、弟の雅俊氏が事業を継承することになった。

ヨーカ堂お馴染みの「鳩マーク」と「セブン&アイ・ホールディングス」のロゴマーク ↓イトーヨーカドーの新旧ロゴ

 これらの事実から、『ほていや』が戦前「歸山(かえりやま)商店」という瀬戸物屋をやっていた頃、都電の線路を越えた斜め向かいに羊華堂洋品店が営業していたことになる。
 昭和20年(1945年)3月10日未明に起きた東京大空襲で浅草山谷の羊華堂は消失、新たな希望を求めて北千住(足立区)のそば屋「たぬきや」さんのわずか2坪の店先を借り、千住で洋品屋を再開した。これが戦後のヨーカ堂のはじまりとなった。

 北千住の駅前通りに面したヨーカ堂千住1号店の後には、ディスカウントストア「ザ・プライス」が最近まで営業していたが、地上13階建ての共同住宅の1・2階部に「食品館イトーヨーカドー」が併設予定とのことで、現在建設工事が始まっていた。

ヨーカ堂千住店があった場所

 ヨーカ堂千住店1号店があった場所から直線約200mの距離にあった創業者自宅跡地は、一家が足立区へ土地を寄贈されたことで、現在は足立区立の児童遊園になっている。

足立区へ寄贈された敷地は、モニュメントのある「イトー児童公園」に ↓千住中居町にある「イトー児童公園」


 ヨーカ堂創業者の伊藤一家が終戦後、千住に移るまで浅草山谷で羊華堂洋品店を経営しながら暮らしていた同じ場所には、現在、深夜まで営業するパスティチェリア 「バール・アルテ」というイタリアンのお店が営業していて、資料を提供してくれたオーナーによると、時折ヨーカドーグループの関係者が(創業地巡礼を兼ねてか)イタリアンを食べに来店するという。
 その中の社員の話によると、創業者一家のひとりで、山谷に暮らしていたことがある元名誉会長の伊藤雅俊氏もお忍びで訪れたことがあるそうだ。

「バール・アルテ」の看板 ↓
「バール・アルテ」の看板

パスティチェリア 「バール・アルテ」
TEL= 03-3873-5083
住所= 東京都台東区清川2-5-3 (南千住駅前歩道橋から徒歩約10分)
【 営業時間 】
● ケーキ販売= 16:00~23:00
● レストラン営業= 18:00~23:00
● バール営業= 23:00~27:00 (ラストオーダー= 26:00)
⇒ 日曜・祝日のバール営業= ~25:00 (ラストオーダー= 24:00)
● 定休日= 水曜日(日曜日は営業)
(※) なお、このブログの情報は正確とはいえないかも知れないので、利用する前にもう一度確認してから入店を !!

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ニコヨンの家 建設計画 

忘れ去られた山谷の風景 ~ニコヨンの家 建設計画~



 最近、古いアルバムに貼ってあった写真を見る機会があって写真を整理しながらPCに取り込んでいたら、山谷のどこかで撮ったであろう同じ人物が座っている集合写真が複数枚あることに気が付いた。
 その人物を調べてみたら、元皇族の「賀陽宮恒憲王(賀陽 恒憲)」様だったことが分かった。奥様と連れだって山谷に来た時の写真だったことだけは推測できた。奥様は、九条道実公爵の五女「恒憲王妃敏子(九条敏子)」様で、貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる天皇家の家系である身分のお高い方だったことも分かった。

賀陽宮様来訪 ①

 いろいろと調べてみると、その大きな庭で撮った集合写真の場所は、『ほていや』から数十メートルの場所にある「大林酒場」の裏にある日本庭園で撮ったことが分かった。裏通りの別館『えびすや』側から見れば玄関の真ん前のブロック塀の中がその撮影場所だった。

大林酒場の裏庭で撮った集合写真(昭和24年1月)には賀陽宮様と令夫人が…
中央後ろに石灯籠の先端、右上の屋根は『えびすや』ができる前の平屋の建物 ↓

賀陽宮様来訪 ②
上の写真は、別の日にほぼ同じメンバーで同じ場所で撮られたもの。灯篭の下の眼鏡を掛けているのが父 帰山仁之助。

 確かめるために大林酒場に行くと、営業中にも拘らず大林のオーナーが快く対応してくれ、厨房にいたお姉さんにも上の写真を見せてくれて、自宅の裏庭で撮ったことに間違いないことが確認できた。裏庭だということは写真中央にある石灯籠の先端で分かったとのこと。後日『えびすや』の二階から庭を見下すと、確かに今も同じ位置に石灯籠があった。

68年の年月を経た今も同じ場所に立つ石灯篭 ↓
大林酒場の裏庭にある石灯篭

 この写真が撮られた昭和24年頃といえば、東京周辺では、いまだ一般の戦争罹災者の多くは壕舎(ごうしゃ)住宅やバラックのような粗末なところで生活していた。しかし、山谷では東京復興の働き手の街として本建築の簡易宿所が次々と造られ始めていた時期で、住む家を失い上野の地下道などに野宿同然に住み付いていた罹災者が、真新しい新築の宿に泊まれるということで当時マスコミでずいぶんと話題になったそうだ。
 父 帰山仁之助の昔の音声テープを聞くと、当時普通の住宅は7坪くらいまでしか建てられず、大きな建物は許可されなかったという。その時代、山谷の簡宿はどんなに大きな建物も許可された。それは戦争罹災者保護と復興事業の労働力の街という大義名分があったからだろう。

 同じアルバムには、終戦後、皇族出身者で内閣総理大臣を務め、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した「東久邇宮稔彦王(東久邇 稔彦)」様が山谷に激励に来た時に撮った集合写真も複数枚あり、戦後復興期に元皇族の力を借りながら山谷の復興を模索していたことが分かる。
 前出の写真の中には、戦後の復興事業に協力した、当時山谷の「7人組」と呼ばれたメンバーも写っていた。しかし、なぜ大林酒場の裏庭の写真だったのかをいろいろ調べてみると、当時の山谷では、東京復興の労働力は集められたが、労働者たちが安く食事を食べられるところや、洗濯をする場所、散髪をするお店も少なかった。
 戦後の混乱期でもあり、福祉行政も行き届いていなかった時代なので、今なら東京都や特別区が行うことを、当時は宿の経営者が福祉行政の一端を担っていたのが実情だった。そこで賛同者を集め出資してもらい民間の組織として労働者のために何かできないかと考えたのが「ニコヨンの家」建設計画で、その建設現場の第一候補が大林酒場だったようだ。

 ニコヨンの家とは、簡易宿所と併設した、当時の市価の半額で食べられる大衆食堂から無料の床屋や洗濯場等など、真面目に働く労働者のためのパラダイスを山谷に作ろうという考えから出た名称だったらしい。

賀陽宮様と撮ったこの写真の日時、場所は分からないが、多分時期は師走のようだ ↓
賀陽宮様 山谷来訪 ③

 実際のところ、計画は昭和28年頃に動き出したようだが、その計画の具体的な内容としては、浅草簡易旅館組合加盟者の中の、賛同者にひと口1万円を出資してもらって土地と家屋を確保、民間で運営し、一ヶ月以上宿泊して一定以上職業に付いた者には理髪券を無料で出し、ひと月に一回散髪のサービスするとか、大衆食堂は、市価の半値で一食(米1合3匀)30円止りの安い食事を提供しようというものだった。
 その外、現今のハローワークのような授産所も設置するとか、宿泊している妻帯者の妻が働いていない世帯の人のために、旅館の布団やシーツ、ひとり者の見回り品の洗濯、繕いをさせ、日当を出そうというものまであった。
 
 ゆくゆくは都の民生局と相談しながら、援助を得られれば30円~50円程度の掛金でニコヨン医療保険や中古のバスを使った建設現場と山谷を結ぶ「シャトルバス構想」などと夢も大きく膨らんでいったらしいが、やっと昭和30年にまず簡易宿所(宿泊部)と巨大大衆食堂(食堂部)が山谷四丁目にできた。開店当時は、食堂では米を売ってはいけない時代だったのに、麦飯六分の割合に米四分混ぜていたことが殺気立つほどの雰囲気を生み、延々長い行列が泪橋にあった都電の停留所までできた。周辺のお店からも苦情が出る程利用者が集まっため、当初の計画を変え、食堂部中心の営業になってしまったという。

 ニコヨンの家建設計画があった昭和24年頃から昭和30年代前半は、山谷では大きな事業が続けざまに行われていたが、その多くが7人組が担ったと伝え聞いている。最近その時給仕をしていた人から聞いた話だと、『ほていや』は当時裏の3m道路に宿の玄関があって、三畳の帳場の裏手にあった六畳間に夜11時頃に七人組が集まって、近くにあった中華料理の「酔仙楼」や日本そば屋の「婦久助」から出前を取って夜食を取りながら山谷復興の構想を練っていたという。

(※) 広辞苑によると「ニコヨン」とは、昭和20年代の半ば、日雇い労働者が職業安定所からもらう定額の日当が240円(100円を「一個」として240円を二個四⇒ニコヨン)であったことからそう呼ばれた。その後、日雇い労働者そのものを呼ぶ別称となったが、マスコミでは差別的な用語だとして使われなくなった。しかし、今はもう死語になってしまっているのでそのまま使った。
 

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山谷の一大娯楽センター 吉景館 

忘れ去られた山谷の風景 ~芝居小屋 吉景館~



 山谷にも復興の兆しが見えてきた昭和26年(1951年)当時。芸能好きな下町の人たちに嬉しい話が飛び込んできた。それは本格的な芝居小屋が浅草山谷にオープンするというニュースだった。

 神崎清氏の「山谷ドヤ街」を読むと、戦前、いろは会通り商店街にあった常設の寄席「吉景亭」が空襲で焼失、山谷の人たちに気軽に大衆芸能を楽しんでもらおうと、演芸好きな父帰山仁之助が吉景亭があったその同じ場所に、土地所有者の福島さんに頼んで延べ床面積378.9 ㎡の芝居小屋を造ってもらったという。それが山谷の芝居小屋「吉景館」で、台東区浅草田中町2-6(現=日本堤1-18−7)の場所だった。

 以前から吉景館の写真を探してきたが、最近開館式当日に舞台前で撮った一枚の写真を偶然発見した。写真の様子から(多分)乾杯の後に撮った記念の集合写真だったようだ。他に芝居小屋の内外を撮った写真が残っていないかとイチウラ写真館へ確かめに行ったが、昔は写真乾板方式のものだったので廃棄してしまったとのことだった。

    (最前列左から三人目の眼鏡を掛けているのが帰山仁之助)
 ↓ 昭和26年6月28日の吉景館 開館式当日、完成したばかりの舞台前で集合写真を

吉景館開館式

 芝居小屋のオープンがよほど嬉しかったのか、この時代の集合写真には珍しく、直立不動の堅苦しいいポーズではなく酒の入った杯を片手にはしゃぐ姿の人なども見られ、今のスナップ写真に近い楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
 イチウラ写真館の現館長から聞いた話だと、杮落としの公演当日には、いろは会通りに人力車に乗った一座の役者たちのお練りもあったという。

 ↓ 全盛期の吉景館の正面玄関の画像(右側土間に支配人室入口が)吉景館の外観

 小椋佳作詞・作曲「夢芝居」でNHK紅白歌合戦にも出場した梅沢富美男氏は、80年代頃から、女形で話題となり「下町の玉三郎」と呼ばれ一座の大スターになったが、昭和36年(1961年)の子供のころ、大衆演劇「梅沢劇団」の一員として吉景館に公演に来ていたと聞いてはいたが裏付けになるものは何もなかった。
 しかし、最近になって梅沢富美男氏の公式HP「梅沢富美男チャンネル」を開いてみたら「昭和三十六年、大衆演劇のメッカとされていた浅草の吉景館から一座に声がかかった」と吉景館のことが紹介されていた。梅沢劇団の東京進出のルーツが、実は東京・下町、浅草山谷だったとは嬉しい話だ。
 他にも演歌に浪曲の台詞を融合させた、当時ニュージャンルの歌謡曲だった“歌謡浪曲”を確立、「岸壁の母」などを大ヒットさせた二葉百合子さんも若いころ浪曲師の一員として吉景館の公演に来ていたという。
吉景館の大入袋
 ↑ 「吉景館の大入り袋」 大入りの時に芝居小屋から株主らに配られた大入り袋

 定員330名まで収容できた吉景館は、終戦後の復興期に再建叶い、山谷周辺に娯楽施設が少なかったことから連日演芸好きの山谷の街の人たちと寄せ場のおじさんたちで満員になることが多かった。小屋が消失する一年半前の大入り袋には、昭和38年5月9日の日付のスタンプ上に「浅草田中町いろは会…」の文字が押されいる。

 舞台の檀上上手(右上)には黒御簾(くろみす)もあったことも分かる(昭和28年5月)
 簡易旅館の東京都の本部組合「大東京簡易旅館組合連合会」の総会も開催 ↓
本部組合総会 昭和28年5月

 ↓ 昭和39年11月22日深夜に起きた吉景館の火災を知らせる朝刊の記事吉景館の火災を伝える当時の記事

 東京オリンピックのあった年、昭和39年11月22日深夜に信じられないような事件が起きた。1階舞台裏の楽屋から、劇団員の寝たばこにより出火、発見が遅れたうえ、おりからの強風にあおられ一挙に延焼拡大、吉景館を含め16棟延べ980 ㎡を消失する大火災となった。吉景館は全焼、鎮火した朝方になってみれば乳幼児を含む死者7名、負傷者4名をも出す大惨事になっていた。
 この火災は、東京、下町の木造密集地帯に潜む災害の危険性を浮き彫りにした大火災だったことで、消防庁の「特異火災」の事例として今でも語り継がれている。

 吉景館の館内は、株主の子供たちにとっては絶好の遊び場所で、山谷の簡宿に大勢住んでいた学校に通えない無籍の子どもたちのための寺子屋「小さなバラ子供会」の各種イベントや「大東京簡易旅館組合(現=東京都簡易宿泊業生活衛生同業組合)」の総会なども開催されていた。
 しかしまだ々分からないことが多いので、吉景館に関わった人たちからいろ々な情報を聞きたいと思っている。情報が入り次第随時このページを更新してゆきたいと思っているが、気になっている主なことを示すと。

● 戦前同じ場所にあった「吉景亭」は、落語はもちろん浪曲、講談の外、ウォルト・ディズニーのアニメーションも映写していた?
● 吉景館の舞台は大衆演劇の芝居小屋としては珍しい花道があり、舞台上手(右側)には黒御簾(くろみす)もあった?
● 観客席は、板の間の大衆席と、舞台右手には席が一段高くなった畳敷きの桟敷席があって、桟敷席の片すみには(有料で借りし出すためか)座布団が積まれていた?
● 二階の支配人室の下には、駅のキオスクのような売店があって、見物客がお捻り代わりに売店で買った物品を舞台へ投げ入れていた?
● 場所柄、日本酒を一升瓶のまま舞台へ置くような人もいたが、舞台へ小銭や煙草ならピースやいこいが投げ入れられて、幕間にそれを子役が三度笠で拾い集めていた?
● 吉景館の玄関右側に土間があって、そこには、確か「四番組」の纏(まとい)が飾られていたが、その理由は?
● 聞いた話では、「四番組」の纏の脇には、火消し装束をまとった銅像があったらしい?
● その銅像は吉景館跡地にできた福島ビルの屋上に移設され、最近まで現存していたらしいが、誰がモデルだったのか?
● 福島ビルの屋上にかつてあったその銅像は、度々投身自殺者と間違えられ119番通報されることがあったので撤去されたのか?
● 支配人室の二階は三室に分かれていて、一番大きな18畳の和室は、ふすまを開くと舞台が広く見渡せるVIPルーム(御大尽席)になっていた?
● 吉景館には専門職の下足番がいて、300人ものお客さんの下足を頭で記憶して管理してたとか?
● その下足番は、吉景館焼失後、土手の桜鍋「中江」さんの下足番をしていた?
● 吉景館の支配人は、吉景館焼失後、向かいに子供向けの駄菓子屋(ゲームセンター)を開業した?
● その駄菓子屋の裏手には、「ちどり」というお好み焼き屋も支配人が経営していて、よく芸能人関係者が訪れていて、司会の冒頭挨拶で「一週間のご無沙汰でした」で有名だった玉置宏さんもよく訪れていたとか?


 ↓ 昭和39年の消失まで吉景館があった場所(現=福島ビル)
吉景館があった場所

 ↓ 吉景館焼失後に建てられた福島ビル屋上に数年前まであった謎の銅像
福島ビル屋上の銅像 ①
福島ビル屋上の銅像 ②&③

 ↓ 吉景館開館の同じ頃に撮った『ほていや』(山谷に続々と本建築の宿が…)昭和25年3月のほていや旅館

 ↓ 紙芝居に集まる昭和24年頃の子どもたち(山谷三丁目 現= 日本堤1丁目)
紙芝居に集まる山谷の子どもたち(カラー)


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灯消えた山谷の名物食堂 

忘れ去られた山谷の風景 ~あさひ食堂~



 昭和20年3月10日未明に起きた東京大空襲で、一夜にして山谷の木賃宿はすべて焼け落ち、罹災者は上野の地下道などで野宿同然に住みついていた。上野は次第に大陸からの引揚者や復員兵なども集まり治安や衛生上の問題なども起きた。

 時は過ぎ、焼け野原の山谷には家を失った住民が次々と戻ってきて何とか街を再建しようとしていた。ちょうどその頃、国やGHQ(進駐軍)の意向もあり山谷に罹災者のテント村が造られることになった。進駐軍はテントや簡易ベッドを配給してくれ、近所の知り合いの20代から30代の若者たちが中心になって、カーキ色の大きな野戦用テントを受け取りにいったり働ける罹災者をトラックに乗せ上野からテント村まで運んだりしたそうだ。その時の若者のリーダーが今回紹介するあさひ食堂という巨大大衆食堂創業の立役者「帰山仁之助」だった。それから山谷は次第に本建築の宿泊所も建てられ復興の兆しも見え始めていたが…。

 しかし、寝るところは出来たが食べることに関して問題が残った。当時は米については非常にやかましい時代で、家のない者は異動証明がないと配給が受けられなかったため、山谷の人たちに手に入るのはコッペパンくらいというありさまだった。

 ↓ 昭和37年の改築時、東京五輪を2年後に控え一番利用者が多かった頃の画像
あさひ食堂 全景
あさひ食堂 店内客室風景
 ↑ 最盛期のピーク時の朝には、125人分の椅子席の後ろにも順番を待つ列が…

 エアコン付き大型大衆食堂に生まれ変わる (昭和37年10月14日 改築落成記念写真)
あさひ食堂 改築落成記念写真
● 昭和28年頃「ニコヨンの家」計画が持ち上がり、山谷の簡易宿所の経営者たちが集まって話し合い、市価の半値で食べられる大衆食堂や簡易宿所、授産所、無料の理髪店と共同洗濯場などを作る計画が固まり、場所探しが始まった。
● 場所が決まり旅館組合の経営者たちがお金を出し合って昭和30年に法人化、12月に株式会社 浅草宿泊所会館の食堂部としてスタートしたのが大衆食堂「あさひ食堂」だった。そんな経緯から当初は「組合食堂」と呼ばれていた。
● 食堂の場所は都電22番線の泪橋停留所に近い浅草山谷四丁目(現在は日本堤2丁目)になった。5年の後には、山谷通り(現在の吉野通り)を挟んで向かいに正式名「浅草警察署山谷警部派出所(通称マンモス交番)」が建つことになる。
● 戦前、仲卸市場で仲買人をしていた佐藤賢司さんを支配人に、戦後、野田から担ぎ屋をしていて山谷に野菜を売りにきていた佐藤さんの奥さん共々食堂の管理を頼んだ。
その外の従業員は、佐藤支配人の出身地野田や帰山社長婦人の親戚が多い宮城県などから働ける若い人材を集めた。
● 当初の計画では三分の二を食堂に、残りの三分の一を無料の理髪店などにするはずだったが、開店から物凄い数の利用者だったことで全部食堂になってしまった。
● 山谷には珍しく食べることに特化した食堂で、開店から閉店まで一切アルコール類などは扱わなかった。その代りヤカンに入れられたお茶は飲み放題だった。
● 高度経済成長期の波に乗って営業は順調に推移し、近くの日本堤1丁目に第二食堂が開店。
● 昭和37年10月14日改築、当時の大衆食堂としては珍しい業務用のエアコンが付いた大食堂として再スタートした。


 ↓ これから夕食営業の直前なのか、夕食メニューが棚に陳列されている
あさひ食堂 玄関陳列棚

  三台のロケット型カウンターとその半分サイズのカウンター二台で最大125名収容
 ↓ 出来た 写真左下は、食べ終わった食器類を洗い場まで流すベルトコンベアー
あさひ食堂 店内配膳カウンター

あさひ食堂 調理場 ①
 ↑ 厨房には7升炊き(70人分)の炊飯釜が6台あり毎日フル稼働していた ↓ 
あさひ食堂 調理場 ②

 昭和37年11月23日、皮肉にも勤労感謝の日の晩に物騒な事件も起きた。かつていろは会商店街の中にあって、昭和39年に火災で消失、山谷の娯楽センターだった「吉景館」。その芝居小屋で300名の労働者を集めて行われた浅草簡易旅館組合と福祉センター共催の「地下たびまつり」(日雇い労働者のための慰安会)のその後に、前月に改築したばかりのあさひ食堂は山谷暴動で破壊され10日間休業する事態になった。山谷暴動で唯一民間の施設が攻撃対象になったのがあさひ食堂だった。

● 暴動が2年前の昭和35年に起きた山谷事件と比べ割り合い早く静まったのは、攻撃対象がマンモス交番など行政でなかったことと警官隊(機動隊)が前回の騒動の経験から、実力行使で群衆の興奮を掻き立てるような行動に出なかったことだといわれている。
● 暴動のきっかけは酔った客が食堂の女性従業員へかけた湯呑茶碗のお茶だった。従業員と小競り合いになって、酔っ払いを向かいのマンモス交番へ突き出したが、当時公共性の強い食堂だったので従業員だけ先に店に帰されたことから暴動に発展したといわれている。その他、
① 地下たびまつりの成功を否定したかった騒動屋(左翼の活動家)が扇動したとか
② 寄せ場の飲食店には珍しく酒を扱わない食堂だったので、酔っ払いの扱いに慣れていなかったことが災いしたともいわれた。


 ↓ 昭和37年11月24日 読売新聞の朝刊に掲載された暴動の記事
昭和37年の暴動の記事
◎ 当時映画館で本編上映前に放映されたシネマスコープの
◆ ニュース映画 ①は⇒こちら
◆ ニュース映画 ②は⇒こちら

 ↓ あさひ食堂の二階部は従業員寮になっていた(左側=男子寮 / 右側=女子寮)
あさひ食堂 男女従業員寮
あさひ食堂 男女娯楽室
 右下の「女子娯楽室」の部屋は、最盛期は子供の託児所になった ↑

● 開店した頃の食事は一食30円程度(市価の半値位)で、今の一般の食堂の丼飯と比べると倍以上の量(一合三勺)があって料理の値段も市価の半値くらいだった。
● 初期の時代の調理場には七升炊きの炊飯釜が計六台あって毎日フル稼働していた。当時としたら珍しい一流ホテルや学校給食で使うような調理機がすでに昭和30年代初めにあった。
● 閉店の頃でも米をリッター枡で計って四台の5升炊きのガス釜で炊いていたので、普通盛の丼飯でも一合一勺の量で提供していた。
● 開店当時は丼飯にみそ汁とお新香が付いて(あさひ食堂では“定食”と呼んでいた)30円だった。
● 浅草簡易旅館組合の旅館に泊まっている人が「宿泊証明書」を持参すれば50円の値引きがあった。
● 開店当時は、米を売ってはいけない時代だったのに麦飯六分の割合に米四分混ぜていた。当時米飯の威光は絶大で殺気立つほどの雰囲気を生み、当局が調べに来たこともあったが黙認してくれたらしい。
● 当初の朝のメニューは納豆やつくだ煮、塩辛など簡単なものが多かったが、景気が良くなってきた頃は朝食から「鯨(くじら)のステーキ」というメニューまであった。
● 味噌や醤油は佐藤支配人の自宅のあった野田から直接仕入れ、野菜や魚類は足立市場から毎日仕入れていた。
● 安くて量が多いだけではなく、物凄く回転が速い食堂だったのでピークの時間帯には炊き立ての丼飯はじめ焼き魚、煮魚なども出来立てを提供出来た。
● 店は早朝5時前に開けていたが、毎朝百人以上の行列が出来て泪橋交差点辺りまで並んだので近所の飲食店から苦情も出た。店員が脇道の城北福祉センター方向へ列を誘導しても、気が付くとまた大通り側に大行列が出来ていた。
● 当時としたら珍しいロケット型のカウンターが五台(三台のロケット型カウンターとその半分サイズのカウンターが二台)あり、下膳する際には、工場で使うようなベルトコンベアーで洗い場まで食器を流せるように工夫してあった。
● 最盛期の客席は最大で125人が座れるようになっていて、そのピーク時の朝には、各椅子席の後ろにも順番を待つ列が出来、現場へ急ぐあまり後ろから「早く食べろ」とばかりに容赦なく椅子を蹴る場面もあった。
● 東京オリンピックの頃までは、朝晩それぞれ3,500食、日に7,000食は出ていた。昭和60年4月閉店の頃でも朝晩で500食(景気の良い時で800食)は出ていた。
● 他の飲食店が休む正月三が日も営業、都からの無料食事券配布の正月は、雑煮やおせち料理を含め一日に10,000食以上ということもあった。

 ↓ 営業初期のあさひ食堂の店内の様子
初期のあさひ食堂の店内

  食堂の前の山谷通りは都電22番線が廃線になった昭和46年3月からは
 ↓ 日雇い労働市場の人混みの中を都バス(東42系統)が走るようになった

朝の営業が終わる8時過ぎ頃のあさひ食堂前

● 一番奥にあった魚焼き場までは入口から30m以上もあったので、魚焼き担当との連絡は手信号も使っていた。
●「雨のカレーライス」と言って 天気が悪天の日は仕事にあぶれる人が多いので、夕食時はおかず類が売れずカレーライスだけが早く売り切れた。
● 前金の食券制で、食券売場は両側に二ヶ所あったが、売場のピーク時ではそれぞれの売場で1分間に10人以上の食券をさばくような食堂(レジ導入後でも1分間に最大7人)だったのでピーク時に食券売り二人が猛スピードで売り過ぎると食堂内が労働者であふれ身動き出来なくなるので厨房から食券をゆっくり売るように指示が出ることもあった。
● 食券を素早く売れた理由は、食券が定食券+複数の金券(金額に応じて色分けされていた)の組み合わせで色盲の検査表を見るように瞬時に暗算不要で計算出来たことと、あさひ食堂のシステムに慣れた常連客が主だったことなどだった。
● 注文を聞く接客係は主に慣れた女性従業員で、同時に2人分から最大4人分もの注文も同時に暗記して正確に配膳していた。
● 二階部から俵の米を落とし、下の穴から米を出すような現今の“計量米びつ”の業務版のような仕掛けも調理場にあった。
● 一度当時の文部大臣が見学に来たこともあったが、利用者のほとんどが男性で、食堂後期の営業では山谷の支援団体関連の人たちで女性や外国人も食べにくることもあった。
● 二階は住込み従業員の寮になっていて男性用と女性・家族持ちの寮とが分かれていた。最盛期では60名もの従業員がいて、小さな子供のための託児所のような部屋があり子供や赤ん坊の面倒を見る女性も専門に雇っていた。


 ↓ 昭和60年6月8日 日本経済新聞の朝刊に掲載された廃業の記事
昭和60年 廃業を知らせる日経の記事

 終戦後の食糧難の時代に生まれ、高度経済成長期と呼ばれた都市基盤のインフラ整備の時代を陰で支えて32年間。山谷の寄せ場のおじさん達の旺盛な食欲を満たし続けてきたあさひ食堂は、昭和60年4月末日をもってその役目を終えた。
 やめた主な理由としては、この頃から山谷の労働者たちが羽振りが段々と良くなってきて、朝食にパンとコーヒーで済ますなど食生活が多様化してきたこと、また労働者が利用出来る飲食店が増え食を満たす場所に不自由しなくなったことなどがあげられよう。食堂があった日本堤2丁目の同じ場所には、現在3階建てのビジネスホテルタイプの簡易宿所が建っている。


● 「働く人に山谷文庫」 は⇒こちら

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山谷昔物語 「働く人に山谷文庫」 

忘れ去られた山谷の風景 ~山谷文庫~



 戦後の混乱から抜け出し復興し始めてきた昭和30年代初頭。東京・下町、浅草山谷の都電通りに出来た“低料金”の貸本屋の古い新聞記事を見付けた。
 1957年(昭和32年)10月3日(木)の読売新聞朝刊に掲載された、当店の先代の善意から出来た「山谷文庫」という、労働者のための小さな山谷の図書館の話だった。
山谷文庫
働く人に“山谷文庫” 簡易旅館組合長の寄付で誕生
                     (昭和32年10月3日読売新聞朝刊に掲載)

 “ニコヨンたちに文化をー”とこのほど浅草山谷泪橋電停前に簡易旅館組合の“山谷文庫”がお目見得した。これは組合長帰山仁之助(きやまじんのすけ)氏が実母のお葬式の花輪を一切辞退し、その分だけ増えた香典約十五万円を組合に寄付、これを資金に発足したもの。
 組合の石炭置き場を改造、約五坪の文庫には現在二千冊近い雑誌や単行本が集められている。貸本を五クラスにわけ、最高は保証金二百円、整理費(貸本代)三日十円、低い方は雑誌の保証金二十円、整理費二円とまず市価の二分の一の安い値段。ニコヨン族が対象だけに開店するのは夕方の五時からで学生アルバイト二人が整理に当たっているが「ショウチュウのかわりに」という殊勝な“お客”もあり開店以来毎日二百人以上が利用し、“人気”は上々という。



 この記事の頃の山谷は、空襲で下町一帯が焼野原になってから12年が経過、復興の労働力の骨休めの街として日雇い労働者たちの平穏でも活気ある街になっていた。その後山谷は、東京の都市基盤インフラ整備の“高度成長期”と呼ばれた時代へと突入することとなり、バブル期の首都圏建設ブームの時代までは寄せ場のおじさん達の街として活況を呈してゆくことになる。
 その後山谷文庫のあった場所は、1960年(昭和35年)7月1日、浅草警察署山谷警部派出所、通称「マンモス交番」という巨大交番が出現。鉄筋コンクリート造り三階建て延べ床面積100㎡、警察官の定員55名。取調室が二ヵ所備わった当時日本最大級の交番ということで、地元山谷では「マンモス」と言えば山谷の大交番の固有名詞となった。現在は普通交番へ格下げ「日本堤交番」と改称されて100m程浅草へ寄った『ほていや』のすぐ近くに現存する。

(※) 広辞苑によると「ニコヨン」とは、昭和20年代の半ば、日雇い労働者が職業安定所からもらう定額の日当が240円(100円を「一個」として240円を二個四⇒ニコヨン)であったことからそう呼ばれた。その後、日雇い労働者そのものを呼ぶ別称となった。現在、マスコミでは差別的な用語として使われなくなったが、当時の新聞記事ということでそのまま紹介した。
 なお、浅草簡易旅館組合という組合名称は、高度成長期に山谷地域の旅館街が荒川区等へ拡大したため、のちに「城北旅館組合」と改称され現在に至っている。


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