橋場のお屋敷通りの逸話と對鷗荘の画像 

山谷地域の東側、橋場通りは御大尽
が別邸を構える高級リゾート地だった…


 台東区の隅田河岸に沿って走る橋場通りは、地元で橋場渓谷と呼ばれるほどたくさんのマンションが連なる場所だ。
 この道は、平安時代よりもっと前から存在した古道で、石浜河岸と言われてきたらしい。江戸時代に隅田川最初の橋、千住大橋が完成するまではこの道こそが奥州街道の本道で、今では言問通りと交わる言問橋西詰の分岐(浅草追分)が新旧街道の分かれ道になっている。

 かつてこの地は、都鳥舞う風光明媚な高級別荘地帯で、江戸に京風な景色を求めるような風流な趣を好む御大尽たちがお屋敷を構える場所だったとか。
 歌舞伎役者の七代目坂東三津五郎邸、伊達宗城邸、松平慶永(春嶽)邸、池田茂政(後 山楽荘)邸、郷誠之助(後 橋場荘)邸、有馬頼萬(後 大谷米太郎邸)邸、神木治三郎邸など等…。

 また、江戸時代から昭和の初め頃までの間は、周辺は山谷にかけて有名な料理屋が点在していて、その中でも「手間ひま掛けて贅を尽くす」料理屋として“大江戸一番”の誉れ高く、江戸将軍から勝海舟を伴って篤姫(天璋院)も度々立寄ったという伝説の高級料亭「山谷八百善」は、隅田川沿いに上客用の別棟もあった。

   幕末から明治初期にかけて多くの錦絵を残した
 ↓ 浮世絵師 豊原国周の作 「石浜の秋月」
「山谷八百善
錦絵上部の扇地紙形枠内に山谷八百善とあり、隅田川畔の当時の風景が偲ばれる(錦絵のモデルは柳橋金子屋の芸妓)。

 田中けんじ氏の「あさくさ つれづれの記」 No.50 に、競馬の有馬記念の創始者「有馬頼寧(よりやす)」が橋場で過ごした少年期の回顧録がとても面白いので、今回のページで紹介します。

 江戸時代、久留米二十一万石の藩主「有馬頼萬(よりつむ)」は、橋場に一万坪近い別邸を構え、大川に沿った船遊び用の桟橋には船頭を抱え、有馬河岸と呼ばれていたとか。家督を継ぐ運命の頼寧は、日本橋蠣殻町で生まれ育ったが、屋敷が延焼による火災に遭ったことから少年期を橋場で過ごすこととなり、家従、女中、馬丁から車夫も控えるような環境で育った。
 『ほていや』から浅草方向一個目の信号を東方向へ、アサヒ商店街を直進してお化け地蔵を過ぎ橋場通りに突き当たったところがお屋敷のあった場所だった。

 ↓ 少年期の有馬頼寧は、橋場から吉原土手を通り学習院初等科上野分校へ通った
学習院へ力車で通う有馬頼寧
 上の絵は、「レタスト」の田中けんじ氏提供

「大体私の邸が不思議な場所にあって、門を出て真っ直ぐ西へ向かうと吉原堤大門に出ます。」ある日「十歳ににもならぬ私に車夫が『若様、今日は浅草にしましょうか?それとも吉原に向かいましょうか?』とたずねてきた。」

知らぬ者が聞いたらお金持ちの不良少年と立場をわきまえない車引きの会話にも聞こえそうだが、そもそも頼寧が通う学習院初等科は、上野の屏風坂を上ったところ(現=科学博物館辺り)に分校があったので、橋場から学校へ向かうには当時二通りの道筋があったという。

「車夫は『若様、ここは吉原ですが何があるかご存知ですか?』などとつまらぬ話を聞かされるので、子供心にも耳年増の仲間入りをする。」
「力車は堤を横切って吉原遊郭を右に御歯黒溝(おはぐろどぶ)に沿って竜泉大音寺通りを抜け、下谷の坂本に出て根岸に入り、鴬谷の新坂を上って上野公園へは入るのです。」
もうひとつの道は「門を左に橋場通りから今戸橋を渡ります。花川戸から右に曲がって浅草公園に入ると六区の裏を抜け、合羽橋を渡り万年橋を経て下谷の坂本に出て、急な屏風坂を上って上野公園に入るのです。」


   総泉寺は関東大震災で被災、昭和3年(1928年)に板橋へ移転した 
 ↓ 頼寧の少年時代、化地蔵は総泉寺の参道の道端にあって、今と違って笠も健在だった
総泉寺の参道とお化け地蔵

橋場のお化け地蔵
平井権八とは、吉原の遊郭三浦屋の遊女「小紫」とのスキャンダルから、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」の題材になった人物、白井権八の本名。
なお、橋場のお化け地蔵は、享保6年(1721年)湯島の渡辺九兵衛の奉納により建立され、今は石造の笠はない。 

「私の家の門から直ぐの道は、総泉寺という寺に入る道でもあります。総泉寺の坊主が吉原に密かに通うために小道が出来、それが後にはちゃんとした道路になったのでした。
道の両側に老松が点々と残っていたのは、総泉寺への特別な道であった証拠であろうと思います。」
さらに「総泉寺の入り口に大きな石の地蔵がありまして、俗に『化地蔵(ばけじぞう)』と呼んでいました。平井権八(白井権八)がここで人を殺害した時、地蔵様に向かって『どうか人に言わないでください』と言ったら、地蔵様が『おれは言わぬがわれ言うな』と答えたとか。後に権八自身が白状して罰せられたと言い伝えています。地蔵は大きな笠を冠り、上向きになっている時はお天気になり、前のめりに冠っている時には雨が降るのだと言われていました。」


 『ほていや』の前を走る山谷通り(現=吉野通り)から昔々遊里(ゆうり)の入り口日本堤へ続く小道に御上から夜店の出店が許されたのが現在の「いろは会商店街」の始まりだそうで、旦那衆が遊女に貢ぐ品々を売っていたのだそうだ。逆に総泉寺のエロい坊主が新吉原へ早く通うために作った抜け道が、何と「アサヒ商店街」のルーツだったというのは、両方とも吉原がキーワードになっていて、しかも山谷地域の歴史が感じられて面白くないですか?

 多感な少年時代を北部浅草地域の貧しい下町の子供たちと過ごした頼寧は、純粋な心で捉えた庶民の現状、労働者、農民、被差別部落などを間近に見たことで、使命感が芽生えてゆき、後年、第一次近衛内閣で農林大臣などの要職を歴任するが、貧しい人々との触れ合いを旨とし、農民運動や働く人の夜学校、物質的救済よりも精神的救済を柱とする「信愛労働学校」を邸内に創設するなど篤志家の姿勢は、華冑界(かちゅうかい)の稀なる人と呼ばれたと田中けんじ氏は最後に結んでいた。
 信愛労働学校があった方の場所には、後に六代目尾上菊五郎が自費を投じて作った「日本俳優学校」があった。

 ↓ 橋場にあった明治の元勲三條実美公の別邸に明治天皇が行幸された記念碑
明治天皇行幸遺蹟

 時代は144年も前まで遡りますが、明治新政府を認めない朝鮮に対する強硬派、西郷隆盛らの朝鮮使節派遣問題で政局が二分、わゆる征韓論を巡る激しい対立から心労で倒れた太政大臣、三条実美公の御見舞いのため船で隅田川を北上、明治天皇は橋場にあった三条実美公の別邸「對鷗荘(たいおうそう)」の専用桟橋に春風丸から下船されました。天皇22歳の時だった。
 1873年(明治六年)の12月19日は、山谷地域の東の外れにあった三条実美公の別邸に明治天皇が行幸された日だった。

   (昭和6年5月27日発行 稲川實氏提供)
 ↓ 對鷗荘建碑記念絵葉書の表紙
對鷗荘建碑記念絵葉書

「いそがしき つとめのひまをぬすみ来て 橋場の里の 月をみるかな」
明治の元勲“三条実美”公が大層気に入っていた別邸「對鷗荘」の写真絵葉書です。

 ↓ 関東大震災前、南東の方角から撮った茅葺き屋根の時の對鷗荘
関東大震災前の對鷗荘の画像

 ↓ 関東大震災後に修復された對鷗荘(木造だった白鬚橋の上から撮影した画像)
関東大震災後の橋場の對鷗荘
 画像をよく見るとブランコや滑り台もあり、對鷗荘には専用の船着き場もあったという

 ↓ 現在の白鬚橋の上からほぼ同じ位置から撮影した画像
白鬚橋より對鷗荘があった場所を望む

 上の写真は、震災後白鬚橋から台東区側の橋場、對鷗荘から山谷方面を望んでいる画像です。画像の右下に見える橋の欄干が昔の木製だった頃の白鬚橋で、右手の小舟が浮いている用水路こそが泪橋へと続く思川です。源頼朝が馬を洗った故事から別名駒洗川とも呼ばれていたそうで、現在は暗渠になってその上を明治通りが走っています。

 ↓ 對鷗荘の裏手、北東方向山谷側から撮った画像
對鷗荘の裏手(山谷側)

 ↓ 岩倉具視寄贈と伝えられる茶室は三条実美公が最も気に入った場所だったらしい
對鷗荘の茶室(内部)

 「見わたせば 波の花よる隅田川 ふゆのけしきもこころありけり」
 明治維新政府太政官の最高長官だった三条実美公を御見舞いされた明治天皇は、對鷗荘を後にされたその帰路、近くの松平春嶽(旧=越前福井藩三十二万石)邸へお立ち寄り、鯉の昼膳にて小憩され和歌を詠まれました。

 「いつみても あかね景色は 隅田川 難美路の花は 冬もさきつつ」
 食後、松平邸を後にした天皇は、親交の深かった近くの伊達宗城(旧=宇和島十万石)邸にも立ち寄られ、長命寺の桜餅を召し上がり、橋場を後にしたそうです。お屋敷での御休息の際、隅田川の冬景色を詠まれた時の和歌は、浅草寄りにある墨田公園内に石碑として残されています。

 對鷗荘は、現在の墨田・台東・荒川の三区が交わる山谷地域の東の外れにあった
 ↓ 川向うから撮った木造の橋と並行する竣工間近の鉄橋の白鬚橋(左が山谷側)
鉄橋の白鬚橋竣工の写真
 ↖ この方向 新旧白鬚橋が平行して並ぶ隅田川畔沿いに對鷗荘があった。

 隅田川沿いの橋場通りを歩くと、かつて御大尽のお屋敷が並んでいて、一筆の土地が広かったためマンション群ができたことが分かる。お屋敷があったところに蔵が残っていたり遺構もないことはないが、団塊世代が遊んだお屋敷跡に残された石垣の小山(多分、池田茂政邸)が子供たちの絶好の遊び場になっていて、誰が名付けたか「トカゲ山」と呼んで自転車で上り下りした懐かしい思い出がある。
 有馬頼萬邸の川沿いのところには、後に浅草寺へ宝蔵門(仁王門)を寄贈した大谷米太郎氏(ホテルニュー大谷の創業者)の邸宅になった。


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天皇陛下と山谷地域 

天皇陛下と山谷地域



 辞書で調べると天皇陛下が皇居から離れて外出することを行幸( ぎょうこう )と呼び、天皇と皇后がご一緒にお出掛けになる場合には行幸啓( ぎょうこうけい )となるそうです。

 先月12月10日(月)午前10時。山谷地域に隣接する南千住駅東口広場の入口に到着した御料車から天皇、皇后両陛下が下りられ、「義肢装具サポートセンター」を訪問されました。
 障害者週間に合わせたご訪問だったそうで20分程の訪問を終えられ、東京メトロ日比谷線の「南千住駅」北改札前から再び御料車にお乗りになり、汐入を通過、水神橋を渡り首都高“堤通ランプ”から一路皇居へ戻られました。

車から手を振る美智子妃殿下
 両陛下を乗せた菊のご紋のお車は、前後三台の警備車両と計四台の白バイに守られながらドナウ通りを通過しました。上の写真は沿道から小旗を振る大勢の市民へ車窓から笑顔で手を振る美智子妃殿下です。
 複合商業施設「BiVi南千住」から「LaLaテラス」を通り過ぎる瞬間、持っていたデジカメを取り出し間近でカメラのシャッターを切った。

天皇・皇后両陛下 南千住行幸啓 ①

天皇・皇后両陛下 南千住行幸啓 ②

 実は、平成天皇と皇后様が南千住を行幸啓されたのは、今回で三回目なんです。一回目は2008年(平成20年)11月12日でした。ですから約4年間の間に、何と三度も南千住にみえているのです。「なぜ南千住なのか?」と聞かれれば、駅の改札から御料車までの距離が短いとか首都高へのアクセスの良さなどいろいろ理由があるとは思います。しかし一番の理由は「南千住の治安の良さ」ではないでしょうか。今や南千住駅から山谷地域は内外からたくさんの旅行者が訪れるごく普通の東京の下町になっています。日本国の象徴である天皇と皇后陛下が度々行幸啓されるほど刑法犯例が少ない安全な街になんです。

 三駅ある南千住駅は、住居表示でいえば南千住4丁目のエリアに入り、両側に南千住3丁目と7丁目という山谷地域に囲まれています。それは周辺が昭和の時代までは線路と車両基地しかないような土地柄で、宿が一軒もない場所だったので山谷地域の区割りから外れている。

 新型お召し列車は2008年11月12日上野駅常磐線ホームを出発、南千住駅を通過 ↓ 
新型お召列車の初お目見え

   お召し列車に使われるE655系ハイグレード車両 「なごみ(和)」は、東北本線「尾久駅」
 ↓ にある尾久車両センターの一般公開日に行けばお目に掛かれる
尾久車両センターのE655系

 2008年に天皇、皇后両陛下が初めて南千住へ来られた時は、国賓として来日されていたスペイン国王フアン・カルロス1世陛下ご夫妻と共に新型お召し列車「E655系車両」で茨城県つくば市からの帰路につくばエクスプレス(TX)をご利用になり、南千住駅で下車され、今回と同じルートで首都高経由で皇居へ戻られました。
 ご乗車が初乗りだった新型お召し列車以外に、通勤列車に天皇陛下がお乗りになったのは歴史上初めてだったそうです。しかも(乗務員は乗っているが)自動運転の電車に乗ったのも“初”だったらしい。

 ↓ つくばエクスプレス(TX-2000系2168F)の車中でくつろがれる両陛下
通勤電車版お召列車内の両陛下とスペイン国王ご夫妻

 当時の報道では紹介されていませんでしたが、スペイン国王は欧州では大の鉄道好きな国王としても有名らしく、過去に両陛下が欧州歴訪した時に、スペイン王国の特別列車でスペイン国王ご夫妻と共に四人で列車の旅を楽しまれたことがあった。最新型お召し列車の乗車と自動運転で運行する日本の最新式通勤列車の両方の乗車は、欧州での列車の旅への返礼の意味もあったようだ。
 当時の毎日新聞によると、カルロススペイン国王は、つくばエクスプレスの印象に対して「モダンで感銘を受けた」とそう述べたそうで、天皇陛下も「私も初めて乗りました」とお答えされたとか。


 時代は140年も前まで遡りますが、明治新政府を認めない朝鮮に対する強硬派、西郷隆盛らの朝鮮使節派遣問題で政局が二分、わゆる征韓論を巡る激しい対立から心労で倒れた太政大臣、三条実美公の御見舞いのため船で隅田川を北上、明治天皇は現在の台東区橋場で春風丸から下船されました。
 天皇陛下と山谷のつながりは、1873年(明治六年)12月19日に、墨田・台東・荒川の三区の境界で山谷地域の東の外れにあった三条実美候の別邸、「對鷗荘(たいおうそう)」に明治天皇が行幸されたことまで遡ります。

明治天皇行幸遺蹟

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 明治維新政府太政官の最高長官だった三条実美候を御見舞いされた明治天皇は、對鷗荘を後にされたその帰路、近くの松平春嶽(旧=越前福井藩三十二万石)邸へお立ち寄り、鯉の昼膳にて小憩され和歌を詠まれました。

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   明治の元勲“三条実美”候が大層気に入っていた別邸「對鷗荘」の写真絵葉書
 ↓ (右端の小舟が浮く水路は泪橋⇒三ノ輪橋⇒音無川へ続く思川=別名駒洗川です)

関東大震災後の橋場の對鷗荘と思川

白鬚橋より對鷗荘があった場所を望む

 上の古い方の写真は、大震災後の白鬚橋から台東区側の橋場、對鷗荘から山谷方面を望んでいる画像で、その下が同じ位置から写した現在の画像です。上の画像の右下に見える橋の欄干が昔の木製だった頃の白鬚橋で、右手の小舟が浮いている用水路こそが泪橋へと続く思川です。源頼朝が馬を洗った故事から別名駒洗川とも呼ばれていたそうで、現在は暗渠になってその上を明治通りが走っています。
 明治初頭から大正期に掛け、特に山谷地域の東側の隅田川沿いは風光明媚な高級別荘地帯で、風流な趣を好む御大尽がお屋敷を構えていたとか。外にも小松宮、有馬伯爵候から梨園の方々など等、お歴々のお屋敷や別邸が数多く並んでいたそうです。そいえば、浅草寺の宝蔵門を寄贈した大谷米太郎邸も、確かこの近くだった。


 ↓ 墨田区側から撮った木造の橋と並行する竣工間近の白鬚橋(左方向が山谷側)
白鬚橋竣工の写真


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新吉原遊郭 “ためになるトリビア” 

新吉原のトリビア



  『ほていや』から浅草方面へ一個目の信号を右折、300㍍程歩いたところの交差点。その昔、遊客が名残を惜しんで振り返ったという場所に今も見返り柳が寂しげに揺れている。
 現在は「千束」という住居表示に変ってしまったが、その先にある大きな“くの字カーブ”を過ぎたところは、江戸の町民文化を語るには避けて通れない特別な場所だった…。

 今の日本橋人形町にあった遊郭「元吉原」は、明暦3年(1657年)、江戸城の天守閣までが焼け落ちたという大火災(振袖火事)により全焼、江戸幕府は同年、この火災で焼失した遊郭を浅草観音裏手の田んぼ地帯の山谷周辺に一旦移し仮宅営業させ、「新吉原」の完成後、正式な営業が新たに始ったとされている。

↓ 江戸 浅草吉原「松葉屋」の花魁道中 一葉桜まつりでのスナップ
新吉原「松葉屋」花魁道中

 その場所は、計画的に小高く碁盤目状に区画され、高い塀とお歯黒どぶと呼ばれていた幅二間(3.64㍍)の堀に囲まれ、外界から完全に隔絶されていた。江戸で唯一幕府公認のこの遊郭は、約3万坪(10万㎡=東京ドーム約二個分)の広さを持つ特別区域だった。今は浅草警察の厳格な管理下にある特殊浴場街になっているが、吉原の中を歩くと平成の現代でもお江戸の昔と変わらない道筋と共に、町の区割や地形までもがほぼ同じ形で残っているから興味深い。
今回は、この「新吉原」のトリビアを紹介します。


  江戸名所図会「新吉原町」 吉原大門へ続く五十間道のくの字カーブは、
↓ 今とまったく変らないということが分かる
江戸名所図会「新吉原町」

  「吉原大門」の交差点(衣紋坂があった辺り)から「五十間道」の入り口
↓ なるほど、この急カーブなら日本堤を通る将軍様から大門も廓も見えない
「五十間道」の入り口

  「五十間道」のくの字カーブ途中(吉原大門交差点から吉原側へ入った場所)
↓ 正面の二棟のマンションが吉原で最後の特殊飲食店「松葉屋」があった場所
「五十間道」

「新吉原」の出入りは、土手通りから衣紋坂を過ぎた場所にあるくの字カーブ(五十間道)の終わりにあった「大門口」という門一ヶ所のみで、「新吉原」からは夜の営業も許可されたという。
 大門は、明け六ツ(午前六時)の拍子木の合図で開けられ、引け四ツ(午後十時)に閉められたが、それ以後は横木戸から出入りした。実際は九ツ(深夜零時)に四ツの拍子木を打ち二時間ごまかしたといわれ、閉門後も一刻(いつとき二時間)営業され、出入りは大門の横木戸を使ったという。夜の出入りが許可されたのを契機に、客筋は町人が激増したという。
 また、遊女の数も「元吉原」時代は千人以下だったものが、江戸時代の終わりの「新吉原」時代には五千人位いたといわれている。

↓ 「新吉原遊郭全図」 1846年の地図 右手くの字カーブ方向が『ほていや』の方角 ⇒
新吉原遊郭全図
吉原の地形は、東西南北を意図的に左下側へ45度傾けて作られている。一説には北枕にならぬ工夫だったと伝えられている。


吉原の歴史は火災の歴史でもあり、江戸時代には、大きな火災発生だけでも36回、うち全焼が21回もあったそうで、その度に周辺の山谷や今戸など他の場所で仮宅営業(かりたくえいぎょう)を続けすぐまた再建を何度も繰り返してしたという。実は、一軒でも焼け残ると幕府から仮宅営業の許可が下りないということから、遊郭で大火があると遊郭のすべて残らず燃やしてしまったのだと聞く。町火消は廓の中に入れなかったということで、周辺の大屋根から遠巻きに眺めるしかなかったらしい。
 近代以降でも、明治44年(1911年)の吉原の大火はじめ、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和20年(1945年)の東京大空襲でもほぼ全焼したが、いつの時代でも僅かな間をおいてすぐに復活、営業再開を繰り返し、元吉原時代から売春防止法施工の猶予期間も含め、昭和33年(1958)2月28日の閉鎖まで、吉原は実に341年間も続いたことになる。

↓ 「浅草田甫 酉の町詣」 ⇒歌川広重の版画名所江戸百景より「浅草田甫 酉の町詣」
 「浅草田圃」とは、吉原を意味する隠語で、部屋の二階の畳の上に置かれた熊手簪から、季節は霜月(しもつき=旧暦11月)の酉の日ということが読み取れ、酉の市詣の行き帰りの行列が、遠くの田んぼの中に描かれている。 
 この浮世絵は、絵の中の装飾と道具立てだけで鷲神社に隣接している“吉原”という場所と部屋の主の商売が“遊女”だということを暗示している。例えば、猫は格子の前に座る遊女を暗喩、窓の下の腰紙には“ひやかし客”を意味する「吉原雀」が描かれていて、広重の作品としたら珍しく遊び心満載の色っぽいテーマの絵になっている。


【新吉原で起きた有名な出来事】
● 寛文9年(1669年)吉原で大喧嘩した大番が自殺、同行の同僚二名も切腹となった。
● 元禄時代、吉原の歴史の中でも一世を風靡したのが、紀伊國屋文左衛門(紀文)と奈良屋茂左衛門(奈良茂)との吉原豪遊合戦だった。二人は、江戸の大火災による建設特需の中、互いに材木商として巨万の富を築いたが、紀文は吉原を一晩千両で貸切にしたり、奈良茂の遊ぶ後には大きな財布の中から一分金がこぼれ落ちていたという伝説もあり、その二人の遊興振りは、小唄「大尽舞」に唄い込まれ世に広まったという。
● 延宝7年(1679年)三浦屋の遊女「小紫」が刑死した恋仲の平井権八の後を追い自害、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」の題材となった事件。
● 宝永6年(1709年)下野(しもつけ)佐野の豪農、佐野次郎左衛門が兵庫屋の遊女「八橋」を殺害、歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」の題材となった有名事件。
● 寛保元年(1741年)姫路藩主榊原政岑(さかきばらまさみね)が、高尾太夫(たかおだゆう)別名“榊原高尾”を1,800両で身請け、このことが原因で徳川吉宗の怒りを買い、政岑は強制隠居され、榊原家は越後高田に転封となった。
● 天明5年(1785年)吉原大菱屋の遊女「綾衣(あやぎぬ)」と旗本の藤枝外記(ふじえだげき)が心中、「箕輪心中」のモデルとなった事件で「君と寝ようか五千石取ろか…」の歌で有名に。


 吉原が華やかし時代は、船宿の二階は飲食出来る文化サロンのような場所だったらしく、その頃の山谷堀は下の画像の上流で狭くなっていて小船でもUターンが出来なかった。なので御大尽でも舟を降ろされ、そこから徒歩か籠で日本堤(土手通り)を廓の玄関、大門口まで通わなくてはならなかった。

↓ 山谷通いの粋客が、小舟で新吉原へ向う通い道、「雪の山谷堀」 明治初期の写真
屋根船が浮かぶ雪の「山谷堀」

  冬の屋根船の中には、意外やコタツも用意されてい
↓ て思いの外快適だったらしい(江戸時代の浮世絵)

歌川豊国「雪見八景 晴嵐」

【吉原関連用語の基礎知識】
「吉原」
⇒日本橋の人形町に“元吉原”があった当時、葦(あし)の生える原っぱということで「葦原」(あし原)といったのが「悪(あ)し原」という縁起の悪い音の響きにも通じることから、葦原(よし原)が転じて善し原⇒吉原(きちげん=よし原)と呼ばれるようになったのが通説とされている。
「山谷通い」 ⇒吉原へ通うには徒歩、馬、駕籠(かご)の外に小舟で行く四通りの方法があったという。猪牙舟(ちょきぶね)という舳先のとがった小舟を仕立てて、柳橋から大川(隅田川)を上って首尾の松の目印を超え、大川橋(今の吾妻橋)をくぐり、竹屋の渡しの辺りにあった掘割を左へ折れる。この水上のアクセスルートは、音無川へ続く山谷堀の水路を使って吉原遊郭へ向かう江戸庶民憧れの通い道だったとか。この粋なお大尽のアクセス方法は、当時「山谷通い」と呼ばれていた。山谷通いをする粋客が乗る船を「山谷船(さんやぶね)」、通人が履いていた草履を「山谷草履」(さんやぞうり)といった。
「土手八丁」 ⇒土手八丁とは、吉原土手、つまり日本堤のことである。元々は江戸幕府が江戸を水害から守るため、全国の諸大名に資金を出させ、待乳山を削って作らせたという土手道、堤防のことをいう。吉原移転後、その堤防は遊客の通う道となった。俗にいう「通い馴れたる土手八丁」とは、日本堤から吉原へ向かう通人のことを言っている。
ある者は徒歩で、ある者は馬子が引く馬や駕籠に揺られ、またある者は山谷堀に浮かぶ小舟から降りて土手八丁を「首尾よくゆきますよう」にと期待を胸に吉原へ通ったらしい。
「衣紋坂」 ⇒大門口へ向かう遊客が日本堤から下り降りる坂のことで、ここで衣紋を繕ったことからそう呼ばれた。
「五十間道」 ⇒鶴御成(つるおなり)と呼ぶ鶴を用いた鷹狩に向かう江戸将軍から吉原を見えなくしたと伝えられる大きく“くの字”に曲がった急カーブのこと。
「大門」 ⇒ダイモンではなく“おおもん”と読む。吉原の周囲を囲むお歯黒どぶには、九ヶ所の跳ね橋が掛けられていたそうだが、遊郭への入口は大門のみで、女性の出入りは厳格な制限があったらしい。しかし、酉の市の日だけは跳ね橋が下げられ、吉原の通り抜けが許されたという。
「仲之町」 ⇒仲之町(なかのちょう)とは、吉原の中央に位置する250mのメインストリートの通りの名前で、町の名前ではない。歌舞伎に出てくる位の高い花魁のデモンストレーションの行列“花魁道中”は、引手茶屋への行き帰りにこの仲之町を通った。通りには春なら桜というように、季節々に旬の草花が植え替えられたという。
「暮六ツ」 ⇒現代の時刻で午後6時頃で、若い衆の鈴の音を合図に夜見世が一斉に開く時間。
「張見世」 ⇒遊郭の店先に遊女が居並んで客を待つことをいい、格子越しに品定めをするショーウィンドーのような場所に遊女が座った。
「すががき」 ⇒見世清掻き(みせすががき)という、分りやすく言えば吉原の廓の開店オープニングを知らせるBGMのことを指す。“暮六ツ”に縁起棚の鈴を鳴らすのを合図に、吉原芸者や新造衆が激しく掻き鳴らす三味線の演奏は、最後の遊女が出揃うまで連続して長く続き、遊里中に響いていたという。
「花魁」
⇒花魁(おいらん)とは、先輩格の姉女郎の中でも上位の呼び名で、遊女の見習いといえる禿(かむろ)や妹分の新造らが自分の仕える姉女郎をさして「おいら(己等)の姉様」と呼んだことから転訛した言葉だと伝えられている。
「花魁道中」
⇒花魁道中(おいらんどうちゅう)とは、花魁の中でも最高位を示す末の位の太夫(たゆう)が、馴染みの客を引手茶屋まで出迎えた時の行列のこと。吉原のメインストリート仲之町を、遊女の見習いの禿(かむろ)を先頭に三枚歯の高下駄を履いた花魁が妹分の振袖新造、番頭新造を後方に引き連れながら外八文字の独特の歩き方を披露した。吉原独特のこの歩き方は、一説には京都松原の内八文字の歩き方にならったと言われている。
「引付」
⇒初会の客が廓の中で初めて遊女と顔合わせすること。「目を回すとことじゃありませんよ」、「学校では教せぇないよっ」などと、よく吉原を舞台とした落語で引付の説明の時に笑わせてくれる。遊郭には引付部屋という宴会場が二階にある。遊郭の入口と引付部屋とへ続く幅の広い階段とは死角になっていて、後から入ってきた客と視線が合わないように建物内部の配置に工夫がされていた。
「ぎゅう」
⇒ぎゅうとは、“妓夫”の端折った言い方で、牛太郎・牛公・牛ちゃんなどとも呼ばれていた若い衆のことを指す。遊郭では主に客引きなどの店番の担当で、廓でもめ事があった時などはボディーガードなど雑用の役目もした。現今の吉原ソープランドの敷地内に立っている「黒服」と役割が似ている。俗に「宵に格子ですすめた牛(ぎゅう)は、今朝はのこのこ馬(うま)になる」の意味は、吉原で遊び過ぎて勘定が足りなくなった客の家まで付いてゆく仕事もその“ぎゅう”の役目で、その昔は、客を連れてきた馬子に駄賃を払って遊客の家まで取り立てに行かせた時、馬も一緒に家まで引いて行ったことから、集金に家まで同行する行為のことを馬(付け馬)と呼ぶようになった。「暮六ツには“牛”だった若い衆が、明け六ツには“馬”になって家まで取り立てに付いて行く」ありさまを皮肉っている。
吉原遊郭では、若くても“遣り手婆”(やり手ばばぁ)は「おばさん」と呼ぶのと同様に、“ぎゅう”は歳を取っても「若い衆」とも呼ばれていた。
「お歯黒どぶ」
⇒遊女の逃亡を防ぐため遊郭の周囲を囲むように設けた堀で、黒く濁っていてまるでお歯黒の液(かね)のようだったからそう呼ばれた。
「ありんす国」 ⇒新吉原の別称で、お国訛りを隠すためや艶っぽさを出すために「 〇〇 ありんす(=あります) 」 などという独特の言葉使いをしていたことによる。ありんす言葉は、一説には京都言葉にならったとも言われている。他の岡場所の類と区別するために、北国(ほっこく)という呼び方もあった。
「吉原雀」 ⇒元の語源をたどれば、葦切(よしきり)というスズメ目ヒタキ科の鳥のことをもじっているらしい。葦原(あし原=ヨシ原)に巣を作って仰々しく鳴き立てることから、吉原のことを隅々まで良く知っていて、しかも鼻にかけて自慢する割にはお金は使わないで、廓の中をフラフラと歩き回る“ひやかし”の類の者のことをそう呼んだ。
「ひやかし」 ⇒江戸の昔、山谷の農民が浅草寺の薦めで始めたサイドビジネスからきた言葉。山谷堀の紙洗橋周辺では、昔から「漉き返し紙」の地場産業が盛んだった。再生紙、今風に言うなら“リサイクルペーパー”の落とし紙(トイレットパーパー)を作っていて浅草紙と呼ばれていた。紙切れ屑を煮た後に冷ましたり、紙を水に浸すことを「冷かし」といって、その作業の待ち時間の間、漉き返し職人が近くにあった廓の中で暇をつぶしたことから転じて、物を買う気がないのに買う振りをすることを「ひやかし」というようになったという。
「土手の道哲」 ⇒「伊達騒動」の原因になったといわれている三浦屋の「万治高尾」太夫との関係でも知られ、歌舞伎、落語などにも名前が出てくる“道哲”とは、泪橋を越え、小塚原(こつかっぱら)のお仕置き場(刑場)へ引かれていく罪人達を、日本堤の土手道から念仏を唱えて見送っていたという寺男のこと。猫好きの花魁にまつわる招き猫伝説が伝えられる「西方寺」を道哲が開基した伝承から、後に西方寺自体のことを“土手の道哲”と呼ぶようになったという。関東大震災後、寺は西巣鴨へ移転、現在は北部浅草に寺は存在しない。
「投げ込み寺」 ⇒山谷地域の北西、三ノ輪橋の近くにある「浄閑寺」についた俗称。「吉原で遊女が病死したり心中したりする者は、お経も読まず墓も塔婆もなく、ただ、お金を二百文添えてこの寺に送って惣墓(そうばか)という穴の中に投げ込んで弔われた」という。浄閑寺のHPによると、安政の大地震で大勢の遊女が廓の中で死んで、この寺に投げ込まれ葬られたことがそもそも“投げ込み寺”と呼ばれるようになった由来だという。
「吉原七不思議」 ⇒吉原のネタを皮肉ったユーモラスなダジャレの羅列。“七不思議”といっても実際には七以上あった。

 吉原の幕引きには、山谷の宿に思わぬ難題も投げ掛けられた。当時の宿には、昭和30年代の後半頃までは戦災で家を失った家族や女性も多く滞在していたが、吉原の女性の流入は治安面での心配もあったので、宿始め、地域が一体となって行政に協力して対応してきた歴史があった。東京オリンピックの前頃から女性や家族を連れた宿泊者は、都の政策で都営アパートへ移り住むこととなった。山谷が男社会になっていった経緯がここにあった。

↓ 別館『えびすや』の小屋裏で偶然発見した歴史的掲示物(昭和33年とある)
昭和33年(1958年)当時の掲示物

 亡くなられた「松葉屋」の女将さん福田利子さんと私の母はPTAのつながりで仲良くさせて頂きましたが、その著書「吉原はこんな所でございました」を読むと、売春防止法が、昭和32年(1957)4月1日から施行、刑事処分に付いては一年間の猶予期間が設けられ、昭和33年4月1日からということになったそうだが、3月31日が最終日でも、わずかなお店を除いて2月28日までには店は閉じられていたそうだ。

はとバス「夜のお江戸コース」

 その年の11月、松葉屋は「花魁ショー」が楽しめる料亭へ、はとバスの「夜のお江戸コース」として再スタートを切った。ちょうど酉の日の晩だったそうだ。東京を訪れる外国人の夜の定番ツアーとしてとても人気があった。
 見返り柳辺りの土手通り沿いに、毎晩決まって外国人を乗せた「Tokyo Night Tour」と書かれた大型バスが停まっていたことをよく記憶している。今も松葉屋が続いていたなら、山谷に泊まる外国人もきっと喜んだに違いなかっただろう。


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幻の光の球場「東京スタジアム」のトリビア 

旧「東京スタジアム」(東京球場)のトリビア



 『ほていや』からでも直線でわずか1.3㌔程の距離。39年前に閉鎖されたプロ野球の最新式スタジアムがこんなに近くにあったことを忘れてしまった人は意外と多い。そこで我々にとってはとても懐かしい「東京スタジアム」のトリビアと画像を紹介したいと思いました。


↓ 泪橋交差点から見た東京スタジアム(昭和30年代後半の画像)
泪橋交差点から東京スタジアムを望む

◎ 「東京スタジアム」、別名を「東京球場」とは、現在の「千葉 ロッテマリーンズ」の前身にあたる「大毎オリオンズ」の本拠地であったプロ野球の球場名で、東京・下町、荒川区 の南千住6丁目にあった。現在は「東京スタジアム」 といえば、東京都調布にある多目的スタジアム(味の素スタジアム)を指すらしい。

↓ 東京スタジアム 正面メインゲート(下の警察車両右にバッティングセンターがあった)
東京スタジアムの正面

◎ 東京・下町、荒川区の住宅街に突如として現れたこの球場は、ビートルズがグループとして最後の公式コンサートを行った会場として知られる「キャンドルスティック・パーク」というアメリカ大リーグの球場を模して作られたと伝えられている。

↓ 東京の下町、南千住にある低層の家ばかりの住宅街に突如として出現したプロ野球場
下町の住宅街に突如と出現したプロ野球場

◎ 場内6基の照明塔は当時としては画期的な照明で、ポール型鉄塔のサーチライトから放たれるとても明るい光線から「光の球場」という愛称でも呼ばれていた。当時の日本の野球場としたらとても珍しいグランドの内野・外野とも本物の芝生で、専用エレベーターで上がるゴンドラ席や貴賓席もあった。

↓ 夜になると真っ暗な下町の住宅街にひときわ光を放つ“光の球場”
光の球場

◎ 1962年(昭和37年)完成、総工費30億円掛けた三万五千人収容のこの球場で最初のホームランをスタンドに打ち込んだのは、実は当時ホークスの捕手だった「野村克也」元東北楽天ゴールデンイーグルス監督だった。また、人気のセリーグ読売巨人軍のカードが年間たった三試合だけ行われていたが、その試合後は最寄駅「南千住駅」までは帰宅を急ぐ人々の長い行列が続いた。

◎ エース 「成田文男」の活躍や当時抜群の得点力から「榎本喜八」、「アルトマン」らのミサイル打線の活躍が知られているが、オリオンズは、1970年(昭和45年)ついにリーグ優勝を本拠地で果たした時には大勢のファンが芝生のグランドへなだれ込んで選手たちが囲まれる事態も…。ユニホーム姿の者は片っ端にファンに胴上げされたが、誰よりも先に宙に舞ったのは監督ではなくワンマンオーナー“永田ラッパ”こと永田雅一氏だったと伝えられている。

◎ 毎年シーズン終了後には、球場の内野から外野席に掛けて一周450メートルの巨大アイススケート リンクが出現、グランドの外野の位置にはテント状のインドアリンクも作られ、スケート好きな地元の若者や子供たちが毎日のように通ってた。東京のアイススケートリンクだと普通はNGのスピードスケート靴もOKだった。山谷地域周辺の団塊世代の人たちにスケート好きが多いのもここに理由があるらしく、インライン・スケートの靴を周辺のアラ還世代の人たちが初めて履いたとしても練習なしで滑れる人が多いらしい。また、他にも球場の南側の角にはバッティングセンター、西側地下部にはポーリング場 とビリヤード場まであった。

  「東京スタジアム」 スケートリンクの記念絵葉書
↓ シーズンオフになれば、“東京新名所”下町の巨大スケートリンクになっちゃう
東京スタジアムのスケート場の絵葉書
滑走記念スタンプ
        ↑ 記念絵葉書の裏面に押された滑走記念スタンプ
          昭和41年3月6日の日付が押されている

◎ 野球の他にも色々な興行も行われていて、中でも旧「日本プロレス」の試合が行われる時には、元読売巨人軍の投手だった「ジャイアント馬場」がリングがある球場に入る際、大勢のファンに取り囲まれても背が高いので、かなり遠くからでも移動する姿が確認出来たという。

◎ メイン入場口近くにある蕎麦処「おおもり」には、当時、オリオンズの有名選手がよく食べに来たという。ある日アルトマンが「きつねそば」を食べてホームランを2本打ってからは、「東京スタジアム」での試合で南千住に来る度、「おおもり」の“きつねそば”を食べに球場から歩くアルトマンの姿をよく見掛けたという。

  今回紹介のブログの内容の位置関係が分かる地図です
↓ 球場の前面道路(千住間道)南側は南千住1丁目で山谷地域
東京スタジアム周辺の位置

◎ 地元で今でも有名、球場が近くだったコッペパン屋「青木屋」。入場前の観客が、当時「元祖青木家 ほっかほかのジャンボパン」と書かれたトタン看板の前、球場内で食べるコッペパンを求め長い列が出来ていた

◎ 日清食品が1971年(昭和46年)にこの球場でカップヌードルの試験販売を行ったことがあるらしい。これが真実ならば、カップヌードルが関東で初めて販売された地は「山谷地域に隣接する南千住6丁目」だったことになる。

◎「客席が野球を見ている」と揶揄されるくらい球場の入りが悪くなってきた1969年(昭44年)当時には「世界初の代走屋」の短距離ランナー「飯島秀雄」外野手がこの地でデビュー。何と彼はプロ野球の経験がまったくなかった。 10.1秒の当時日本記録保持者の背番号は「88」だった。この頃には、外にあった外野席のトイレへの出入り口から場内へタダで入れて、飯島の走る姿を見ることが出来たが、当時それを静止する球場係員はひとりもいなかった。

◎ 大毎オリオンズの成績不振が続き、さらに親会社の大映映画の倒産が原因で1972年(昭和47年)には閉鎖、わずか10年しか使われなかったことで地元でも球場の記憶を持つ者は意外と少ない。かつて東京・下町、南千住にモダンな最新式の「光の球場と呼ばれたスタジアムがあって、幻のように消えていった」と後世に伝えられるのかも知れない。



「東京スタジアム」があった場所は、現在、荒川区のスポーツ施設と南千住警察署になっている。もし南千住駅周辺へ行くために、どこかでタクシーに乗って、うっかり「東京スタジアム」の近くなどと言ってしまったら、調布市西町にある球技場へ向かってしまうので注意を !!


「東京スタジアム」が出ているYouTubeの動画(テレビ番組より)
http://www.youtube.com/watch?v=jhNGcdTe-L8


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